スティーブン・スピルバーグ監督「シンドラーのリスト」

スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」をようやく見る。1993年の作品。公開当時、僕は韓国で暮らしていた。スピルバーグの作品は、インディ・ジョーンズ・シリーズを見ていたから、当然、公開時点で見ていてもおかしくないけれど、見逃してしまった。韓国語字幕で映画を見ることにまだ慣れていなかったということもあるが、韓国でいわゆる「歴史認識問題」に直面していて、ちょっと歴史認識関係から離れていたいと言う思いがあったことも確かである。結局、僕はそのままずるずると「シンドラーのリスト」を見ることを先延ばしにしてきた。この間、ジェラシック・パーク・シリーズはともかくとして、結構、彼の作品はほとんどロードショー上映を見ていたんだけれど。。。

言うまでもなく、「シンドラーのリスト」は、ナチスによるホロコーストを扱った作品である。ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが、1000人以上ものポーランド系ユダヤ人を、自身の工場の労働力に必要だと言う名目で収容所送りから救ったと言う実話に基づいた物語である。

この映画を巡っては、大きな議論が巻き起こった。最も有名なものとしては、ジャン=リュック・ゴダールと、映画「ショア」の監督のクロード・ランズマンとの論争がある。ランズマンは、ショアでホロコーストに関わった人たちにインタビューし、これを9時間30分のドキュメンタリーにまとめた。ランズマンから見れば、「シンドラーのリスト」はホロコーストをハリウッド映画として売り出すことで、結果的にホロコーストの悲劇を隠蔽するものである。特に、ユダヤ系アメリカ人であるスピルバーグが監督することが問題である。彼が、ユダヤ人をホロコーストから救おうとしたドイツ人がいたという物語を語ることは、プロパガンダ以外の何者でもない。ランズマンは、このような映画は撮られるべきではないとまで主張する。

これに対して、ゴダールが次のように反論している。以下、ちょっと長いけれど引用しておこう。

僕が思うに、かりに僕が優秀な調査ジャーナリストと一緒にとりかかるとすれば、20年後にはガス室の映像を見つけ出しているはずだ。被収容者たちが入っていくところが、そしてどんな状態で出てくるかが見られるはずだ。すべきなのは、(「ショア」に資料映像を少しも持ち込まなかった)ランズマンとか(「アウシュビッツの後に詩を書くというのは野蛮なことだ」と言った)アドルノがしているように、それは禁止されていると言い渡すことじゃない。彼らは言いすぎているんだ。というのも、そうした場合は、「それは撮影不可能だ」といったタイプのきまり文句をめぐる際限のない議論に行きついてしまうからだ。人々が撮影するのを妨げるべきじゃない、本を燃やすべきじゃない。そうでなければ、それらを批判することができなくなるわけだ。(中略)映画はものごとを考えることを可能にしてくれるわけだ。

「ゴダール全評論・全発言3」より

ゴダールの主張はいつものようにラディカルで単純だ。ホロコーストであれ何であれ、映画化を禁じてはならない。なぜなら、それがどんなものであれ、映画として表現されている限り、我々はホロコーストについて思考することができるからである。そもぞもランズマンは、ホロコーストは映像化することなどできないと言う前提で議論を進めており、ショアという作品もこれを前提に制作されている。しかし、ホロコーストの映像は存在するはずだ。。。

実際、その後のゴダールの「映画史」や「イメージの本」には、ゴダール自身が「発見」したホロコーストの映像が繰り返し引用されている。それは、正直、見るのも辛い非人間的な映像だが、しかし映像があり、これを見ることによって、私たちのホロコーストをめぐる思考は、決定的に見る以前のものと異なってしまうことも確かなのだ。その意味で、ゴダールは正しい。禁止するのではなく表現せよ。そこからしか思考は進まない。

余談だけど、この問題は、四方田犬彦が「映画と表象不可能性」の中で取り上げている。そこで四方田は、ホロコーストを表象することで世界中の子供たちに歴史の悲劇を伝えようとするスピルバーグと、いかなる表彰も強制収容所の悲劇を描き尽くすことはできないし、そうするべきではないという認識に基づいて映像の不在と欠落そのものを他者なるものの顕現の証だと主張するランズマンを対比させながら、この二律背反をいかに逃れるかと言う観点から、ストロープとユイレの作品が持つ歴史性を論じている。こう書くと中立的に見えるが、四方田自身は、ゴダールにもスピルバーグにも批判的である。その後、四方田はスピルバーグの「ミュンヘン」も同様に批判している。

さて、これだけ前置きすれば、僕が「シンドラーのリスト」を見ることをためらってきた理由が分かっていただけるだろうか。ホロコーストをめぐる映画は、「ライフ・イズ・ビューティフル」のように、たまたま舞台を強制収容所に設定しただけのどこにでもあるお涙頂戴ものの作品を見ることすら、政治性を帯びさせてしまう。まして、ここまで論争の対象になってしまった映画を見るには、それなりの覚悟が必要である。たかが映画に何を大騒ぎしてるの?と突っ込まれそうだけど(実際、本人もかなりの部分、そう思っているけれど)、まあ、こういう映画の見方というのも世の中にはあるのである。

で、「シンドラーのリスト」を見た感想。。。。月並みだけど、良い映画だと思う。アカデミー賞の作品賞、監督賞他を受賞したというのもうなずける。少なくとも、「ライフ・イズ・ビューティフル」に賞を出すぐらいなら、絶対に「シンドラーのリスト」である。あるいは、ポランスキーの「戦場のピアニスト」に比べても、「シンドラーのリスト」の方が圧倒的に素晴らしい。作品の完成度からも、ホロコーストの取り上げ方からも、比較にならないぐらい良質である。これみよがしのお涙頂戴も、これでもかという暴力的な場面もない。それでいて、ホロコーストというものを生み出してしまった人間という種の底知れない闇を描き出している。

そもそも、この映画は、ランズマンや四方田犬彦が批判しているような映画ではない。まず、ホロコーストは映し出されていない。あるエピソードで、工場労働者を乗せた貨車が間違ってアウシュビッツに運ばれてしまう場面がある。しかし、実際のアウシュビッツが写っているのは、門までで、アウシュビッツ内の場面はセットである。言葉の厳密な意味において、この映画ではアウシュビッツは映し出されていない。スピルバーグ自身は、アウシュビッツ内でカメラを回そうとしたらすべて故障してしまったためにセットを作らざるを得なかったというまことしやかな言い訳をしているようだが、多分、大量の死者を出した地でカメラを回すことだけは慎むという倫理だけは妥協したくなかったのだろう。。

また、シンドラーも、決して人道主義者などではない。彼は、単に安い労働力を求めてユダヤ人に目をつけた実業家に過ぎない。ナチスの上層部に取り入り、ビジネスを拡大して金儲けしようとしたどこにでもいる実業家である。もちろん、彼も最後には自身の工場の従業員を救うために奔走する。彼は、取り憑かれたように、収容所行きを免れるユダヤ人の数を増やそうとする。しかし、彼にとっては、自分が救うことのできたユダヤ人よりも、救えなかったユダヤ人の数の方が問題なのである。映画の最後、ドイツの敗北が決まり、工場のユダヤ人が解放されることが分かった日に、シンドラーは工場のユダヤ人たちから感謝の言葉をかけられる。しかし、シンドラーはもっと多くのユダヤ人を救えたはずなのに救えなかったと言って嘆く。その意味で、この物語は、ユダヤ人を救ったドイツ人の物語ではなく、もっと多くのユダヤ人を「救えなかった」ドイツ人の物語なのである。それは、決して、歴史を美化しようという物語ではない。

どうも、歴史認識の問題に引きずられ過ぎたようだ。この映画の魅力はもっと別のところにある。例えば、モノクロームの画面。映画はほぼ全編にわたりモノクロで撮影されている。しかし、時々、色彩が入る。モノクロームの中に赤い服を着た少女がふっと登場する場面はとても美しい。色があるということの喜びを感じる。それだけに、いっそうモノクロームの場面が持つずしりとした重みにホロコーストの悲劇を感じる。

あるいは、ユダヤ教の儀式の数々。映画の冒頭から、スピルバーグはユダヤ教徒の家庭内の宗教儀礼を映し出す。どんな状況であっても、家族で、あるいは友人たちで集い、神に祈りを捧げ、共に朗詠する人々。スピルバーグ自身が敬虔なユダヤ教徒かどうかは知らないけれど、この映画には確かにユダヤ教を信仰する人たちの静謐で確固として生き方が描かれていて好感が持てる。不意に皆が心を一つにして宗教歌をゲットーや工場内で歌い出すときの静謐な画面の佇まいが素晴らしい。

何よりも、この映画では、名前を呼ぶことの象徴的な意味が繰り返し描き出されている。ホロコーストとは、無名のユダヤ人たちの大量殺戮ではなく、一人一人名前を持った人たちが、その名前によって選別され、ある者は労働力として生き残り、ある者はその価値がないとして強制収容所に送られるというプロセスだった。このことを、映画は明確に描き出す。他者を名前で呼ぶこと。それは、ナチスにとっては、ユダヤ人を殺すか生かすかを区別する指標にしか過ぎないかも知れない。しかし、本来、名前を呼ぶという行為は、その他者を、自分にとってかけがえのない誰かとして名指すことを意味する。だから、シンドラーは、自分の工場で働く「安い労働力」のリストを作成し、個々人の名前を読み上げた瞬間に、彼らの命にコミットすることになるのである。映画で繰り返し、シンドラーがユダヤ人の名前を読み上げていく。その行為がとても感動的で、この映画のタイトルが「シンドラーのリスト」であることの意味が実感できる。

この映画は、最後、モノクロからカラーへと画面が変わり、シンドラーのおかげで生き残ることができた人たちが、シンドラーの墓に花をたむけていく姿をゆっくりと追いかける場面で終わる。ここで、映画は現実に接続する。歴史を語ることは、どんなに事実を追求していっても所詮は虚構でしかない。その意味で、「ショア」もまたドキュメンタリーの体裁を持った虚構である。しかし、仮にそれが虚構であったとしても、現在に召喚されれば現実となる。シンドラーのリストという物語は、生き残った人たちの現在に召喚されることで、映画において歴史を描くことの新たな可能性を開示しているように見える。

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