熊切和嘉監督「ディアスポリス」

熊切和嘉監督の「ディアスポリス」を観る。公開当時に映画館で見るはずだったんだけどあっという間に上映が終了し、気がついたらレンタルビデオ店からも消えていたので見る機会を逃していた作品。思い立ってようやくiTunesでレンタル。

熊切監督との出会いは、とても遅い。「鬼畜大宴会」で噂になっていたので名前は知っていたけど、どうも「鬼畜大宴会」のイメージが先行して、信頼する映画好きから勧められていたけど、僕は敬遠していた。初めて観た作品は、「海炭市叙景」。これで衝撃を受け、その後は、「アンテナ」「ノン子36歳(家事手伝い)」「夏の終わり」「私の男」「武曲」と追いかけている。

熊切監督作品の魅力は何だろう。とにかく登場人物が生の感情を画面に漲らせるところだろうか。登場人物が沈黙してうなだれる立ち姿や、何も言わずに二人で座り込む姿をこんなに叙情的に撮ってしまえる監督は、今の日本にそうそういないと思う。こうした静かな場面をきちんと描けるから、登場人物が感情をぶつけ合う場面が上滑りしない。「武曲」で、綾野剛と村上虹郎が木刀で闘う場面の壮絶さは、殺陣の強度以上に二人の感情の強度が画面を活性化させるからだ。すべての場面が、それ自体として強度を持ちながらストーリーに緊密に結合している。映画としての基本をここまできちんと提示できる希有の才能だと思う。

「ディアスポリス」の舞台は、近未来の東京。密入国者が増え独自の裏社会を作った彼らは、自らを守るために裏都庁や裏銀行、裏病院を作り、さらに裏警察組織「ディアスポリス」まで作った。署員は、「署長」の久保塚と相棒の鈴木の二人だけ。ある時、裏都民のマリアが誘拐・殺害されるという事件が発生する。犯人は、留学生崩れのアジア系犯罪組織「ダーティイエローボーイズ」の周と林。この二人は、マリア殺害の過程でトラブルを起こし、ヤクザからも追われている。二人の足取りを追って、裏警察とヤクザがそれぞれ行動を起こし、周と林も殺人を重ねながらさらに大きなターゲットを目指して大阪に向かう。。。

こういう設定だから、当然、映画は壮絶なクライム・アクションとして展開される。実際、周と林が各地で犯す殺人は凄惨で残虐である。久保塚につきまとうヤクザの暴力も凄まじい。しかし、不思議なことにこの映画には宗教的な主題も一貫して流れているように感じられる。暴力と宗教という相反するテーマが錯綜するところにこの映画の魅力がある。

宗教が主題となるのは、周と林の出自に関わっている。彼らは、日本に密入国する前、中国の地下教会のメンバーだったのである。しかし、地下教会は中国政府により摘発され、家族は獄死。二人は、国家転覆を目指した地下教会関係者の孤児として厳しい幼年時代を過ごし、日本に渡ってきた。神に救いを求めながら救いを得られなかったという屈折した感情が、彼らの暴走の基調にある。しかも二人は、日本に点在する地下教会に立ち寄っては、犯した罪の告解を続けているのだ。

それだけではない。二人を追うヤクザの若頭、伊佐久もまた、孤児として神父が運営する孤児院で幼少期を過ごした過去を持つ。伊佐久は、逃亡する二人に自分たちの過去を重ねているようにも見える。それは、同情なのか、それとも近親憎悪なのか。。。

不思議なショットがある。久保塚が、二人を追って車を大阪に走らせる場面に、二人の中国の地下教会での回想場面が、無造作に挿入されるのだ。本来、この回想場面は、当事者である林と周の二人の主観ショットとして提示されなければならないはずである。それがなぜか、二人の過去など知るわけもない久保塚の主観ショットして提示されてしまう。では、この過去は、久保塚の想像の産物なのだろうか。しかし、そんなことはあり得ない。同じ場面は、以前にきちんと二人の主観ショットとして提示されており、林と周の会話からも、この回想が現実に起きたことは明らかである。このショットでは一体何が起きているのだろうか?それはまるで、久保塚の意識が何者かによって強制的に二人の回想に接続されてしまっているかのような印象を与える。その何者とは、いったいどのような存在なのか。

映画の中盤でこの画面が登場することにより、裏社会の犯罪の物語は一気に神から見放された二人の孤児の祈りと救済の物語へと転換する。二人の救いを求める祈りに神は応えるのだろうか。二人を追う伊佐久は、同じような境遇にあった二人をどうするのだろうか。。。

熊切監督作品の例に漏れず、映画は、壮絶な肉弾戦で幕を閉じる。熊切監督の演出は、俳優にあらゆる殺陣を超えた生身の身体の制御しきれない動きを強いる。そこでは人間の意思は無力となり、ただ生々しい感情と身体が露呈する。その姿は、神に見捨てられた孤児の末路にふさわしいのかもしれない。

映画の最後もまた、不思議なショットが提示される。海岸に打ち捨てられた車の後部座席から、カメラは長い夜を終えて薄明の中を水辺に向かって歩いていく久保塚と鈴木の二人を映し出す。水辺でジャレ合うかのようにも見える二人を長回しで捉えるカメラ。しかし、このカメラは誰の主観ショットなのだろうか。

そのまま映画が終わりを告げた時、観客は、この映画の冒頭、久保塚のモノローグと共に室内をゆっくりと動いていくカメラを思い出すだろう。モノローグが被さりながらも、久保塚の主観からは完全に離れて浮遊するカメラで幕を開けた映画は、途中、主観の混乱と接合を経て、再び、何者か匿名の主観ショットへと回帰して幕を閉じる。その何者かは、もしかしたらこの映画の宗教的な主題と深く関わっているのかもしれない。どうやら熊切監督の映画的思索は、さらに進化を遂げているようだ。

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