大林宣彦監督「花筐/HANAGATAMI」

大林宣彦さんが亡くなった。多分、様々な世代の映画小僧たちが、それぞれにリスペクトし、背中を追いかけてきた映像作家のヒーロー。ご冥福をお祈りします。

僕の初めての大林体験は、「Emotion=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」。1966年の作品だけど、僕が見たのは大学に入った80年代。多分、渋谷に移る前のイメージ・フォーラムだと思うけど、もしかしたら池袋の文芸坐かもしれない。モノクロの画面に映し出された幻想的なイメージの連鎖を辿りながら、自主制作でこんなこともできるのかと感動したことを覚えている。

もちろん、「House」も気になる作品ではあった。でも、僕たちの世代にとって、大林宣彦といえば何よりも「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の尾道三部作である。これに「狙われた学園」と「廃市」を加えても良い。アイドル映画でありながら、リリカルでノスタルジックで、しかも映像面での実験を続ける大林監督の毎回の挑戦を僕たちは熱狂的に支持した。映像の魔術師の名にふさわしい、幻想的な世界に僕たちは陶酔した。

でも、ある時から、僕は大林宣彦の作品を見なくなった。多分、「少年ケニヤ」とか「天国に一番近い島」のような商業性の高い作品が続いたことで少し距離感を感じたのかもしれない。80年代は、相米慎二が次々と作品を発表し、ミニシアターが様々な海外の名作を紹介し始めた時代でもある。僕は、こういうアート性の高い作品に惹かれていったので結果的に、大林宣彦の作品まで追いかけることができなくなったということもある。結局、僕は、気にはなっていたものの、「漂流教室」も「異人たちとの夏」も「北京的西瓜」も「青春デンデケデケ」も観る機会を逃してしまった。

だから、今回の訃報を聞いて、追悼の意を表すために何を見ようかと考えたとき、少し後ろめたさを感じた。あれだけ熱狂していた作家だったのに、とても長い間、ご無沙汰してしまっていたからである。僕は、昔、熱狂した映画を改めて見直すべきなのだろうか。それとも、90年代から2000年代初頭にかけての名作と言われた作品を見るべきだろうか。

結局、僕は、最新作を見ることにした。大林宣彦監督は、時代が変わっても現役として作品を撮り続けた数少ない映像作家である。そんな人に追悼の意を表すとすれば、それは彼の最新の作品を見て、同時代の作家としての彼の表現を見るべきではないか。ということで、昨年の公開の際から気になっていたけれど、反戦メッセージとかローカル映画とかの周囲の雑音で見る機会を逃してしまった「花筐/HANAGATAMI」を見ることにした。

「花筐」は、2017年公開の作品である。原作は、檀一雄の「花筐」。監督自身のメッセージによると、劇場公開第1作の「House/ハウス」よりも前に製作する予定で脚本を仕上げていたものらしい。いわば、40年前の作品と言っても良いわけだけど、映画は僕の予想を冒頭から心地よく裏切り、実験的で、映画的感動と詩情に満ちていて、しかも時代に対する深いメッセージをたたえた素晴らしい傑作となっていた。いや、多分、この作品は、現在のデジタル映像技術があって初めて実現できた作品だと言っても良いかもしれない。言い換えれば、大林監督の想像力は、世界よりも40年早いものだったのだ。

実際、この映画の様々な実験的映像を見ていると、大林監督の表現世界にようやく現在の映像技術が追いついたことを実感する。特撮技術の話だけをしているわけではない。例えば、映画の冒頭、主人公で語り手の榊山俊彦が断崖絶壁から海を見下ろす場面。榊山のナレーションをかぶせて荒れ狂う海が映し出され、そのままカメラは榊山が陸地に戻って学校に向かう姿を映し出す。しかし、すべてが合成画面のように着色され、海すらも人工的である。その異世界感によって、僕たちは一気に大林ワールドに引き摺り込まれてしまう。

だから、榊山が学校でアポロのような肉体美を誇る鵜飼や、世捨て人の虚無僧のような吉良に出会い、彼らに惹かれていく展開に違和感がない。大げさな台詞回しもくせのある演技もすべてがこの映画作品の中では自然に感じられる。そして、従姉妹の美那がモノクロームの画面で登場し、突然、井戸際で赤い血を吐き、彼女を介護するためにその血を吸い取ろうとする叔母様との絡みを描いた妖艶な場面も説得力を持つ。凡庸な監督が撮れば目も当てられないことになると思うけど、それが本当に大林ワールドとしか言いようのない魅力溢れる場面になる。すごい。

そこから先は、まさにイメージが氾濫する万華鏡のような物語世界である。様々なエピソードが複雑に絡み合う。青春映画のようでもあり、戦争映画のようでもあり、生き別れた恋人達の悲恋の物語でもあり、旧制高校のある種同性愛的な学友の物語でもあり、さらには没落していく一族の物語でもある。そして、様々なイメージが交錯する。深紅のバラ、血、ワイン、真っ赤なドレス・・・と赤色が飛び交うかと思うと、荒れ狂う海が教室の窓のすぐ下にまで浸透し、おくんちの金魚、出征兵、村の子供達、夜空の月、タバコ、望遠鏡・・・と一つ一つ豊かな意味をたたえた濃密なイメージが画面中に充満する。その世界の豊かさにただただため息をつく。こんな素晴らしい実験精神と独自の美学に裏打ちされた世界を佐賀県唐津市の「古里映画」として撮ってしまうなんて、まさに大林監督は「映像作家」を貫き通した人だった。

映画は、唐津くんちを背景に最高潮を迎える。唐津くんちの「曳山」が夜の街を練り歩く中、登場人物達の様々な想いや戦争の暗い影、生と死、出会いと別れ、愛と嫉妬が複雑に絡み合い、爆発的なイメージの奔流が闇の中に流れ込む。映像の魔術なんていう言葉が陳腐に聞こえる圧倒的な映像世界にただただ身を浸す。大林宣彦という人が、日本にかつて存在し、映像作品を作り続けたという事実が何か奇跡のように感じられる。素晴らしい。とても言葉では描写できない圧倒的な映像体験である。

たぶん、80年代に僕たちが出会った大林監督は、あまりにも早すぎた天才だったのだと思う。あの当時ですら、彼の作品は圧倒的な魅力を持っていたけれど、彼の頭の中にあった映像世界は、当時のテクノロジーでは半分も実現していなかったのではないだろうか。デジタル技術をフルに活用し、様々な映像をコラージュしながら一瞬たりとも弛緩することのない映像の連鎖に身体を委ねながら、僕はようやく大林監督のイマジネーションの一端に直接触れることができた幸福感を味わっていた。デビッド・リンチ、アレハンドロ・ホドロフスキー、エミール・クストリッツァ、テリー・ギリアム、スピルバーグ、リュック・ベッソン・・・様々な映像の革新者達の作品を経ることで、ようやく僕らは、あまりにも早すぎた天才、大林宣彦の映像世界の真価を理解できるようになったのかもしれない。

残りの「戦争三部作」も早速見ることにしよう。。。そして、新型コロナウィルスの影響で公開延期になってしまった「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」も上映開始次第、駆けつけなければ。。。

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