チャン・イーモウ監督「初恋のきた道」

チャン・イーモウ監督「初恋のきた道」を見る。1999年の作品。主演は、これがデビュー作となるチャン・ツィイー。ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品。この作品を契機に、チャン・イーモウ監督は、今までコンビを組んできた女優コン・リーに代わる新たな主演女優を発掘した。この後、彼はチャン・ツィイーと共に、「Hero」「Lovers」を立て続けに発表し、国際的な製作活動に入ることになる。そういう意味でもチャン・イーモウ監督にとっては転機となる作品だろう。

物語は、20世紀末の中国。小さな農村で40年以上にわたり小学校の教師を勤めていた父が町で急死したとの訃報を聞いて帰郷したユーシェンの姿を捉えるところから映画は始まる。残されたユーシェンの母は、父の遺体を町から村まで戻すのに、伝統に則って葬列を組み、棺を村まで担いで帰ると言い張る。その背景には、40年以上前の父と母の出会いの物語があった。。。

映画は、モノクロで撮影された現在と、カラーで撮影された父母が出会う文革時代が対比される形で進行する。中国第五世代監督の旗手の一人であり、「紅いコーリャン」や「菊豆」などで映像の魔術師と呼ばれたチャン・イーモウ監督の本領は、望遠カメラを多用したクローズアップと遠景を印象的に組み合わせ、人物の背景に中国の広大な大地と色彩を配した劇的な場面づくりにある。夕陽の中ですべてが黄色に染まった大地を、赤い服を着たチャン・ツィイーが疾走する場面は、確かに美しい。公開当時は、多くの批評家が絶賛した。

ただ、今の目から見ると、むしろモノクロームの現代の方が美しく見える。コントラストを落とした落ち着いた色調であるにもかかわらず、村の寂れた雰囲気や放置された農具や食器、村人の時代遅れの服装などが鮮明に映し出されていて、その技術の高さにうならされる。何よりも、すでにWTO加盟を果たし、経済大国として躍進しようとしていた当時の中国に、まだこのような農村が残されていたのかという事実に驚かされる。映画の終盤、教え子たちが馳せ参じ、吹雪の中で棺を担いで村に戻る場面も言葉を飲むような美しさである。

話は飛んでしまうけれど、僕が映画を集中的に見始めた80年代は、いわゆる第五世代と呼ばれる新しい世代の監督たちが世界から注目された時代だった。「黄色い大地」のチェン・カイコー、「盗馬賊」の田壮壮、「黒砲事件」の黄健新たちである。チャン・イーモウもその一人だった。彼らは、文化大革命の頃に紅衛兵として活動し、また下放されて農村生活を余儀なくされたという経験を持つ。文化大革命終了後にようやく北京に戻ることが許され、北京電影学院で映画製作を専門的に学び、キャリアを開始したグループである。彼らの特徴は、文化大革命の経験を反芻するように農村を舞台に取り上げ、ロングショットとクローズアップを組み合わせた劇的な映像づくりと、前の世代の「社会主義リアリズム」とは異なる新たなリアリティを映画に取り込もうとした点にある。

この中で最も国際的に成功したのが、チャン・イーモウ監督だと思う。HeroやLoversは大ヒットしたし、最近でも「グレート・ウォール」や「Shadow/影武者」などのヒット作を監督している。それに、2008年の北京オリンピックでは芸術監督として世界中に注目された。第五世代の監督の多くが、1989年の天安門事件とその後の政治的反動の中で沈黙を余儀なくされたり(田壮壮監督)、海外への移住を余儀なくされたり(黄健新監督)する中、チャン・イーモウ監督はしたたかに生き延びた。だからと言って、責めるつもりは全くないし、そのことが彼の作品の質を低めると言うことにはならない。けれど、やはり監督の創作に対する姿勢と、現実世界とは少なからず関連しているなと言う思いは禁じ得ない。

一言で言ってしまうと、チャン・イーモウ監督の作品は、通俗的で表面的なのだ。この「初恋のきた道」を、例えばチェン・カイコー監督の「子供たちの王様」と比較すればよく分かる。同じように、文化大革命時代に農村に下放されて教師として働くことになった青年を扱っているのに、チェン・カイコー監督は、文化大革命という狂気、文字を知らない農村のリアリティを深く掘り下げていって、最後に中国文明の根幹である「漢字」への懐疑へと至る。そして、新たな漢字を創造するというささやかな行為を通じて、誰も知らない農村で孤独に子供たちに文字を教える青年教師が、中華文明を解体し、組み替えようという途方もない企てを行うのである。文化大革命という経験を真摯に受け止め、これをどのように捉え返して世界へと投げ返すのか、それがチェン・カイコー監督の創造の出発点だとすると、チャン・イーモウ監督の映画作りは、たかだか初恋の物語を中国農村に移し替えただけの発想でしかない。「初恋がきた道」で絵が描かれる教師もごくステレオタイプで、文化大革命の影もエピソードにとどまる。

これは、映像づくりにも言える。チェン・カイコー監督が「黄色い大地」で多用したロングショットとクローズアップの組み合わせは、まさに黄色い大地の中で生きる人々のリアリティを描き出すための手段であり、美的効果を狙ったものではなかった。むしろ、BGMを極力排し、自然音と肉声の歌声だけを導入することで、映像の持つリアリティを最大限に発揮させようとした。「黄色い大地」で撮影監督を勤めたチャン・イーモウ監督は、その映像スタイルを「初恋のきた道」にもとりいれる。しかし、スタイルは真似できても、画面に必然性がなければ、すぐにそのインパクトは陳腐化する。監督自身もそれが分かっているから、BGMを加えることでなんとかごまかそうとするけれど、結果的にそれが凡庸なメロドラマ化をさらに加速することになる。

確かに、チャン・イーモウ監督の映画は分かりやすく、見た目にはインパクトがある。しかし、現実に根ざしていない映像の力は所詮たかが知れている。これを埋め合わせるために、彼はBGMをフル活用し、さらに特撮やアクションを駆使して映像の強度を高めようとしていく。それは、もちろん、現在のハリウッド映画のメイン・ストリームの手法でもある。だから彼はいまだに国際的な映画作りを継続することができる訳だけれど、中国第五世代が登場した時の、「映画史が今、大きく書き換えられようとしている」という高揚感を経験した僕らの世代から見ると、その「活躍」は少し悲しい。

僕にとっては、チェン・カイコー監督が巨額の資金を投じて作り上げたスペクタル画面よりも、例えば、田壮壮が10年ぶりに映画製作を「許されて」発表した「春の惑い」の慎ましやかなたたずまいや、風に舞い飛ぶ白い布の一瞬の美しさの方が、限りなく愛おしいのである。

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