大林宣彦監督「廃市」
どうやら僕は、大林宣彦監督にはまってしまったようだ。仕事の締め切りがたまっていてこんなことやっている場合ではないと頭では理解しているんだけど、身体が言うことをきかない。仕事を途中で投げ出して、ふらふらとビデオ屋に迷い込み、つい「廃市」を借りてしまう。でもかろうじて理性は残っていたようで、無意識に手に持っていた「北京的西瓜」と「青春でんでけでけ」はかろうじて支払い直前に棚に戻した。焦ることはない。これから時間をかけてゆっくりと一人レトロスペクティブをやればいいのだ。。。。などと譫妄状態のように独り言を呟きながら、自宅に戻る。そもそも、レンタル・ビデオ屋に行ったのは、「さびしんぼう」を借りようと思ったのだけど、やはり郊外のTSUTAYAにそんなものは残っておらず、では何を借りれるのだ!と半狂乱になって棚を巡っている内に気がついたら3本も手にしていたという体たらく。こんなことでは先が思いやられる。。。
何はともあれ、「廃市」である。1983年に大林組がたまたま2週間の夏休みが取れたのを利用して、16㎜カメラを福岡県柳川市に持ち込み撮影してしまったという伝説的な作品。でも、そんなことが信じられないくらい完成度の高い映像世界。なんで、こんな短い製作期間でこれが撮れてしまうのかは大いなる謎である。そもそも、大林さんは、監督だけでなく、作曲、編集、ナレーションまでこなしているのだ。まさに映像作家によるインディペンデント映画。製作・配給は、(多分、今時の映画好きには忘却の彼方に消えてしまった)ATG。製作には愛妻の恭子さんが入っている。出演は、小林聡美、尾美としのり、高林陽一、峰岸徹、根岸季衣、入江若菜。大林組常連がしっかりと固めている。さらに、入江たか子さんが「時をかける少女」に続いての出演で存在感を示している。それにしても、この人が画面に登場するだけで空気が冷やっとして気温が2〜3度下がるような気がするのはなぜだろう。最初の登場シーンで彼女がアップになった瞬間、ただならぬ気配を感じてしまった。多分、大林監督は彼女の「怪猫」シリーズが大好きで、この映画でオマージュを捧げたんだろう。冗談抜きで、これだけでも観る価値がある。
原作は、福永武彦。物語は、古い歴史を持つ運河の街が火事で焼失したというニュースを聞いて、10数年前、エドガー・アラン・ポーのオカルト的主題をテーマに卒業論文を執筆すべく親類のつてを頼って一夏をその町で過ごした主人公の江口が、当時を回顧する形で進行する。江口の滞在先となった旧家には美しい娘、安子(=小林聡美)が祖母(=入江たか子)と一緒に住んでいた。姉の郁代(=根岸季衣)とその夫、直之(=峰岸徹)はなぜか不在である。江口は、安子に街を案内されて街並みを気に入り、さらに安子にも心惹かれていく。やがて、その家族の複雑な人間関係が徐々に明らかになっていき、そして悲劇が訪れる。。。
物語は文芸色豊かで、それなりに面白い。しかし、この映画の魅力は何よりも柳川の街のたたずまいにある。その後、高畑勲がたまたまロケハンで訪れて惚れ込み、ドキュメンタリー映画「柳川掘割物語」を撮影したあの柳川市である。縦横に堀が巡らされ、くすんだ灰色に深い緑をたたえた堀を人々が船で移動していく。安子が劇中で説明するように、この複雑に入り組んだ街では、堀を船で行くのが最も近道なのだ.繰り返し映し出される堀での船の移動、水面に浮かぶ藻や水草の鮮やかな緑、掘割沿いに立ち並ぶ古い街並み、ところどころに架かる橋の上をのんびりと往来する町の人たち、川面に垂れる柳の葉、水面を吹き渡る風・・・。いつものように、大林監督は取り憑かれたように、古い街並みを画面に取り込もうとする。まるでその街並みに堆積している時間の古層をそのまま保存するかのように。。。
そう、この映画もまた、他の多くの大林映画同様、主題は「時間」である。そもそも、この街は、安子や直之が繰り返し語るように、社会の発展から取り残され、人々はただ現状に安住してしまって衰退していくだけの街である。何度もの疫病によって人口が減少し、若い者は街を見捨てて都会へと去って行く。残った者たちは、ただ謡や歌舞伎や祭り太鼓などの芸事に明け暮れて滅びの時を待っている、「廃市」と言うにふさわしい場所である。登場人物の一人がぽつんと呟く、「芸事に明け暮れてやることがほかになくなれば、ついには死んでしまうほかないかもしれません」という言葉が、この街のすべてを語っている。
だから、江口のお気に入りの懐中時計は、彼がこの街を訪れて早々に故障して動かなくなる。それがまさにこの街の時の停滞を物語っている。人々は記憶の中に生き、未来に目を向けようとしない。でも、大林監督は、このような時が止まってしまった空間に愛情あふれるまなざしを注ぐ。堀端での花火遊び、夏祭りの芸事の披露、そして掘割に船を繰り出して鑑賞する素人歌舞伎、夜空に高く打ち上がる花火、掘割の上を飛んでいく蛍・・・・時が止まっているが故に、奇跡のように残されているこうした夏の風物詩を、大林監督は愛おしそうに画面に定着させる。その映像は、本当に美しい。
たぶん、こうした古い時の流れを一身に抱え込んでいるのが安子の姉、郁代(=根岸季衣)なのだろう。この映画の「お姉さん、そんなに隠れん坊ばかりできんのよ」という惹句は、たぶん、複雑な人間関係からだけでなく、時の流れそのものから逃れようとする郁代を象徴的に表した言葉のような気がする。それは言い換えれば、妹の安子の無力感の表現でもある。結局、安子は、姉夫婦の思いにも、時の流れにも介入することができず、ただ呆然と傍観しているしかない。それは、もしかしたら、「時をかける少女」で語られた「時の亡者」の変奏なのかも知れない。しみじみと心に染み入ってくる名作である。
それにしても、大林監督の作家性はここでも明らかである。階段を上がる女性のくるぶしへの偏愛、主人公の江口が寝泊まりする部屋はやはり屋根裏のような奥まった場所であり、障子にはいつものように月の光に照らされた木々のシルエットが映し出される。旧家の古い箪笥や茶器、和菓子などのオブジェもどこか懐かしさをたたえている。どんな場面でも大林監督の作家性が刻印されている。
しかし、今回は、いわゆる大林マジック的な奇をてらった映像世界は展開されない。2週間という短い製作期間で、使用するのは16㎜カメラ、しかも柳川市のオールロケであれば、それが不可能なことは明らかである。でも、そこは大林監督。映像でマジックができないのであれば、音響で実験を試みる。これが素晴らしい。映画の冒頭、江口のナレーションにかぶる形で、柳川市の駅に降り立つ場面が映し出される。と、ナレーションが中断し、一瞬の空白が訪れる。しかし、それは沈黙ではない。その中断に耳を澄ますと、聞こえてくるのは堀を流れる水のせせらぎ。この瞬間、この映画のもう一つの隠された主題が音響であることが明らかになる。
その後、映画は、大林自身が作曲した映画音楽と水のせせらぎが、まるでオーケストラのように互いに反響し合い、追いかけっこをするかのように続いていく。それはまるで、映画の音響は、音楽も効果音も自然の音もすべてが映像と同じ力を持って映画を構成しているという素朴な発見に心躍らされた監督が、新しいおもちゃを手に入れた子供のように、徹底的に遊び尽くそうとしているようだ。さらに、映画の後半、安子、郁代、直之の3者の関係が明らかになるにつれて、不思議な鐘の音が加わる。その鐘の音は、ともすれば停滞しそうになる物語を励ますように、要所要所で句読点のように鳴る。それが、この映画に不思議な余韻を添えている。それはまるで、福永武彦の原作にも、柳川市の掘割にも敬意を払いつつ、でも作家としての自分の足跡も映画に刻み込みたいという大林監督のユーモアあふれるいたずらのようでもある。これこそ、インディペンデント映画作家の刻印。やはり大林監督、ただ者ではありませんでした。