大林宣彦監督「時をかける少女」

大林宣彦監督「時をかける少女」。1983年公開作品。原田知世初出演映画。公開当時は薬師丸ひろ子・松田優作共演の「探偵物語」の併映だった。主題歌は松任谷正隆作曲、原田知世の歌で大ヒットした。当時の角川映画の勢いを感じさせる作品。原作は、未だ現役作家の筒井康隆。

正直、公開当時、僕は、決して美人とは言えない女の子が角川映画の主演に抜擢された理由を理解できなかった。当時売れていた薬師丸ひろ子や冨田靖子に比べるとどう考えても原田知世は地味である。演技もうまいとは言えない。正直、どこに魅力があるのかよく分からなかった。しかし、その後、彼女はどんどん美しくなり、女優としての実力も蓄えていった。87年の阪本順治監督「傷だらけの天使」の自転車に乗る姿、あるいは竹中直人監督「さよならCOLOR」で病院の屋上で白いドレスに包まれてさまよう姿、そして歌手としての活躍・・・。今から振り返れば、僕たちの世代の映画の女神は彼女だと思う。今更ながら、角川春樹の女優発掘の才能には敬服する。

話がそれてしまった。。。大林宣彦監督追悼でBSシネマ放映になったのだから、監督の話をしなければ。。。

この映画のストーリーの紹介はさすがに必要ないだろう。実写版のリメイクもあるし、アニメ版もある。未来から来た男の子に恋をする物語、青春のある日の記憶、尾道の懐かしい風景・・・。言うまでもない青春映画の傑作である。

今回、久しぶりに見返してみてもそれを実感する。冒頭、星降る雪山で流れ星を見つめる芳山和子(=原田知世)と堀川吾朗(=尾美としのり)。そこに、同級生の深町一夫(=高柳良一)が現れる。モノクロームの中、明らかにセットと分かる空間で交わされる歯の浮くような台詞。原田知世の台詞もたどたどしい。でも、今から振り返ってみれば、それが大林マジックの始まりを告げていることがわかる。大林監督にとって、映画とはフィクションであり、ファンタジーだから、リアリティなど不要なのだ。。。そして、映画はゆっくりとモノクロームの中に色彩が入り始め、やがてカラーへと移行する。それは、大林監督が虚構の始まりを宣言するスタイルであり、同時にこのタイムトラベラーの物語の重要な要素ともなっている。うまい。

それにしても、大林監督の画面づくりは濃密だ。常に画面が様々なオブジェや動きや色や形で埋め尽くされている。しかも、画面自身が物語と違うレベルで自律的に躍動する。例えば、あの有名なフレスコから流れ出るガスで原田知世が倒れる場面。床に落ちたフレスコから白いガスが流れてくる印象的な場面だけど、その白い煙は、翌日の朝、原田知世が朝食のテーブルでぼんやりと見つめるティーカップに注がれた紅茶の湯気に連なり、さらに彼女が外出して街を歩く時に横切る焚き火の煙へとつながっていく。白い煙の精妙としか言いようのないたゆたいに思わず息をのむ。美しい。。。

あるいは、尾道の街並み。狭い坂道、長くのび出た庇。延々と連なる屋根瓦、その道を駆け抜けていく子供たち、高校に向かう学生の群れ、旧家の醤油醸造所、ガラス張りの温室、屋根裏のような奥まった書斎・・・すべてが大林的空間であり、すべてが懐かしい。こうやって言葉を連ねていきながら、見たばかりの映画をもう一度反芻していると、今更ながら新作をもう見ることができないという事実の重みをずっしりと感じてしまう。もっと同時代の作家として見ておけばよかった。。。

とはいえ、80年代初頭のこの作品を30年以上も過ぎた後に見返してみるとやはり新しい発見がある。花筐を見た後で、もう一度この映画を見てみると、大林監督が偏愛した画面スタイルが鮮明になる。狭い坂道を歩き、走ること。崖の上で荒れ狂う波を見下ろすこと。白い障子に映るシルエット。流れ出す血を口で吸ってあげること。時空を超えて移動し続けること・・・。大林監督は、何かに取り憑かれたように同じイメージを反復し続ける。

そして時を巡る思索。この映画は、青春映画である以上に、時をテーマとした思弁映画のような気がする。タイム・トラベルものだから当たり前だ、と言われそうだけど、それはあくまでもSF的な舞台設定に過ぎない。この映画で問われているのは、過去、記憶、不在の死者との対話、そして未来。この映画には、さりげない形で様々な死者が言及される。吾朗の父親は理由は不明だが既に亡くなっている(一瞬、遺影が映し出され、原田知世が手を合わせる場面が挿入されている)し、一夫の両親も亡くなっている。

原田知世は、タイムトラベルできる能力を身につけて過去の自分や吾朗達との記憶を辿り、あやうく「時の亡者」になりかかる。時の亡者とは、かけがえのない現在を喪失してしまい、時の狭間に落ち込んでしまった存在である。かれらは、ただ愛しき者たちを誰にも気づかれずに見ているだけの存在であり、その時空にいる時、本来いるはずの過去の自分は消えてしまう。なぜなら同じ時空に同時に二人の自分が存在することは不可能だから。

この「時の亡者」という主題も、繰り返し大林監督が取り上げるテーマだろう。過去を変えてはならないというのはタイムトラベルものの鉄則だけど、むしろ大林監督は過去に飛んでしまったことによって結果的にその時その場所にいるはずだった自分を消してしまうことの意味について考えているように見える。時空を超えて自己が移動する時、自己は自己である限りにおいて唯一の存在だから、もう一つの自己の存在を許さない。しかし、時空を超えて移動する自己は、本来、そこにいるはずのない自己だから、その時空に介入することはできない。そもそも、そこにいる知り合い達から認識もされない。

この「時の亡者」のイメージは、まさに「死者」のネガだ。死者は、本来、そこにいてほしいと生きている者が願うにもかかわらず、常に不在として存在し続ける背理である。それは死者の側から見れば、そこに存在できないにもかかわらず、不在という形での存在を強いられる「時の亡者」となる。こうした存在は、まがまがしく時空の流れを攪乱する危険な存在である。

結局、「時の亡者」になりかかった原田知世を救うのは、一夫の「強くあの時に戻りたいと願うんだ」という一言である。それによって原田知世は、時の狭間から脱出し、現在に戻ってくる。その現在とは、彼女がタイムトラベラーとしての能力を身につけることになった科学教室であり、ラベンダーの香りである。すべてはそこから始まった。だから、そこに戻ればすべてはリセットして元通りになると一夫は言う。でも、時はそれほど単純なものではない。

「あの時」に戻り、未来人としてすべてをリセットして未来に戻ろうとする一夫に、原田知世は「私はあなたを愛してしまったからもう元には戻れない。」と反論する。自己が紡いでいく時間は記憶として沈殿して歴史となり、どんなに時計を巻き戻してももう元には戻れないのだ。すべてを戻すためにはすべてを忘却しなければならないけれど、それは愛を、記憶を、そして歴史を否定することにつながる。原田知世はそれにあらがう。

これに対して、一夫は「時は過ぎ去ってしまうものではない。時はやってくるものなんだ。」と言って原田知世を諭す。大林監督の晩年の映画を見た後でこの台詞に戻ってくると、この言葉の深みがひしひしと伝わってくる。第二次世界大戦の死者の記憶。それを取り戻すことはできない。かといって、一夫の祖父母のように、死者のために新たな買い物をし、死者があたかも生きているように振る舞うことで、その記憶をなかったものにすることは決してできない。それは、祖父母がしみじみと語るように「ずっと二人だけだった」世界であり、時の流れが止まった途絶された世界でしかない。

人は、過去だけに生きるのではなく、未来に向かって生きていく。時はやってくる、出会いは再びやってくる。過去の記憶を失っても、それは未来の記憶としてあなたの中に残るだろう。未来の記憶を到来させること、それが生というものだ。終生、第二次世界大戦の死者の記憶、歴史の記憶と向き合い続けた大林監督の、時と記憶と歴史を巡る僕たちへのメッセージがここにも残されている。何度でも見続けたい傑作である。

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