「鴻池朋子 ちゅうがえり」展@アーティゾン美術館

鴻池朋子さんは、僕にとって最も気になる現代アーティストの1人である。深い森の中で狼と戯れ、時に一体化してしまう少女。あるいはふわふわとした柔らかい毛におおわれた大きな耳をもった異界の生き物。あるいは、精密に描かれたミクロの昆虫世界・・・。緻密に描き込まれていながらどこか幻想性を持ったその世界は強い物語性をもって見る者の心をこの世から連れ去ろうとする。その卓抜したテクニックと、生と死の混沌とした世界観は本当に魅力的である。

しかし、2011年を境に鴻池さんは活動拠点を地方に移してしまった。秋田県立美術館でのアートプロジェクトが中心になり、作品も絵画からモノへと移行していった。「根源的暴力」シリーズに使われた動物の皮や骨、あるいは「ハンターギャザラー」の巨大な皮緞帳やカービング・・・。鴻池さんの中で何かが大きく変容しているんだろうな、と感じつつ、秋田まで絵を見に行く時間が取れなかった僕は想像力を逞しくしておくしかなかった。

現在、アーティゾン美術館で開催されている「鴻池朋子 ちゅうがえり」展は、こういう僕のような鴻池朋子ファンにとっては堪えられない企画である。これまで鴻池さんが日本各地で仕掛けてきた様々な作品をまとめてみることができる貴重な機会で、しかも、襖絵や影絵灯籠など、和のテイストを取り入れた新作も見ることができるのだから。新たに生まれ変わったアーティゾン美術館の新機軸ジャム・セッション・シリーズの第一弾だけど本当に見応えがある。

会場を見て回る。まずは初期のドローイング・シリーズ。少女もみみおもいる。懐かしい。大人になる前のある年齢の少女のみが発散させる神秘的な生命力や、深い森や書物などの物語性を感じさせるアイテム。星と月、火山・・・。鴻池さんの作品世界を通底するモチーフである。

続いて、「ハンターギャザラー」シリーズの毛皮の作品へ。完全に衣服に加工される前の毛皮が無造作に天井からぶら下がっている。手触りはまさに動物で、顔や手なども残されている。何か生命の痕跡をアートとして表現しようという気持ちが感じられるけれど、同時にまだアート作品として完全に鴻池さんの中で消化され尽くしていないのではないかという宙づり感がある。たぶん、鴻池さんにとって、これらの作品は次の段階に移行するまでに必要なプロセスだったんだろうな、と思う。

狭い回廊のような空間を抜けて広いホールに出る。中央に巨大な襖絵を設置し、その周りを皮緞帳などの作品群で囲んだ今回の展示のメインとなる会場。襖絵に入る前に、まずは周りの作品を見て回る。面白い。これまで鴻池さんがドローイングやペインティングで描いてきた異界のクリーチャーが、毛皮や木や糸や皮などのマテリアルを得て新たな命を得たように感じられる。まさに物質的な手触りというのだろうか。まるで、かつての作品に登場した異界の生命達が、より具体的な生命形態を求めて鴻池さんを突き動かしてこういう作品を作らせたかのようだ。そういう意味で、鴻池さんはアーチストであるとともに巫女のような存在なんだろうと思う。アートを通じて、異界とこの世をつなぐ者。絵画からモノへと彼女が移行していった必然性が理解できたような気がする。

そして巨大な皮緞帳へ。形態と色彩の乱舞、多様な生命形態、宇宙と星、地球。近寄って一つ一つの絵を辿っていくと、そこにまた自然の物語が描き込まれている。鮭を捕るヒグマ、あるいは大地の深く根を下ろした巨樹・・・。壮大なビジョンに圧倒される。以前の作品からは想像もできないようなエネルギーの奔流を感じる。ここでもまた、鴻池さんがある決定的な転換点を迎えたのだと実感する。

これと対照的にモノクロームで描かれた襖絵は、皮緞帳が描く生命の世界と対照的に、どこか死の影を帯びているようにも見える。太陽ではなく月、生命の存在を感じさせない不穏な竜巻の嵐。そこに描かれているのは、静謐な終末の姿のよう。しかし、それもまた鴻池さんにとっては世界を構成する重要な要素なんだろう。陰と陽、ポジとネガ。世界は相反するものの対立と共存によって成り立っている。だとすれば、カラーの世界とモノクロームの世界も、別々のものではなく一対のものと考えた方が分かりやすい。面白いのは、両端にそれぞれ鴻池さんが拾い集めた小石を貼り付けたふすまがあること。様々な色や形を持った小石が、一見ランダムに貼り付けられたふすまを見ていると、生命を持たないけれど原色に輝く小石がまるで生きているように感じられる。鴻池さんがどこまで意識的にこの作品を作っているか分からないけれど、彼女の作品世界の中では、生物と無生物が軽々と境界を越えて感応しあっているようにも見える。それが、この展覧会の神話性をさらに強化しているように感じられる。

これ以外にも、東北の人たちのお話を採集してキルトに表現した作品シリーズ、神話を巨大なキルトの中に描き込んだ作品シリーズ、そして鴻池さん自身が雪の中に埋まって歌を歌ったり厳寒の川をカヌーで下ったりする姿を描いたビデオ作品など、見所はたくさんある。これを見ていると、鴻池朋子という人は、アートを通じてシャーマンとなり、語り部となり、巫女になり、ヒーラーになり・・・と変貌を続けているように感じられる。しかも、そのすべてがアート作品となっている。多分、本来、アートとはこういう人びとの集合的意識や自然と交感するメディアの役割を果たしていたんだろう。アートが本来持つ力強さを改めて発見することができる貴重な展覧会である。

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