バッド・ベティカー監督「七人の無頼漢」

バッド・ベティカー監督の「七人の無頼漢」を見る。あの上映時間77分の西部劇である。これだけ読んで、「あのバッド・ベティカー監督か!」と反応してくれる人はシネフィル度が高いと言えるだろう。そう、蓮実重彦が「映画 誘惑のエクリチュール」で「七の奇蹟」という一章を割いて論じた、あのバッド・ベティカーである。日本では、なかなか彼の映画を見る機会はないので、BSの放送は本当にありがたい。

では、なぜバッド・ベティカー監督の作品にシネフィルは驚喜するのか。詳しくはぜひ「映画 誘惑のエクリチュール」を読んでほしいのだけど、要するに、彼は「七人の無頼漢」から始めて「ラナウン・サイクル」と呼ばれる7本の西部劇を連続して撮った。この七本は、すべて主演がランドルフ・スコット、製作がハリー・ジョー・ブラウンである。「ラナウン」は、ランドルフの頭文字とブラウンの最後を組み合わせた造語である。7本連続で同一の監督・主演・製作の下に映画が作られてしまうと言うのは、映画史的にも稀だろう。

しかも、この7本のうち、はじめの四本は厳格に77分の上映時間となっている。だからなんだ?と言われると身も蓋もないけれど、世の中には、映画の物語と表現と密接に関係しているはずの「上映時間」をこんな風にあっさりと何らかのこだわりに従って、操作してしまえる人間がいるのだ。こうした映画の持つある種の「とほうもなさ」に対する感性を持つことなしに、映画という底知れぬいい加減さを内に秘めた「芸術」と付き合うことはできないだろう。

この映画の物語自体は、単純である。元保安官のストライド(=ランドルフ・スコット)は、町の銀行を襲撃して金塊を強奪した七人組の無頼漢に妻を殺され、復讐のために彼らを追う。その途上で、幌馬車に乗ったジョン・グリーアとアニーの夫婦と出会って行動を共にすることになる。さらにそこに、かつてストライドに捕縛された悪党のマスターズ(=リー・マーヴィン)とその相棒が合流し、彼らは無頼漢が潜伏する町に向かうことになる。。。

こんな単純な物語のどこが面白いのか。とりあえず、蓮実先生の文章を引用しておこう。

・・・バッド・ベティカーの西部劇、とりわけ「ラナウン・サイクル」に属する七本は、この無償の透明性の戯れともいうべきもののみを七回も反復している。つまり、からっぽの空間で直交する二つの視線の争いとしてある決闘へ向けて、あらゆる説話的な要素が組織されているのだ。決闘という西部劇にあってはあたり前すぎる儀式をクライマックスに据えた彼の作品は、しかし、その儀式を、この上なく単純で抽象的とさえ呼べそうな要素に還元している点が特徴的なのだ。そこにさまざまな道具立てを盛りこむのではなく、むしろ儀式性を欠いた儀式の無償の純粋性にまでおしやっている点に、バッド・ベティカーの創意がこめられているのである。というのも、そのとき決闘は、あの、画面には決して撮られることのない視線の交錯と恥ずかしいまでに似てくるので、映画自身がおのれの無力さを露呈せざるを得ないからである。実際、バッド・ベティカーにおける決闘は、あたかもそこに何も映ってはいないかのように呆気なく終わる。その呆気なさは、ことによると、その瞬間に映画であることを放棄した事実からくるかもしれない。

(中略)視線の交錯とは、いうまでもなく銃弾の交錯にほかならず、視界をさえぎるもののない裸の舞台装置を前提としている。・・そしてほとんどの場合、勝敗は一瞬のうちに決まる。だが、その勝敗の結果にもまして重要なのは、視線に対する映画そのものの敗北なのである。誰も、その透明にして希薄なる遭遇を画面の上に認めたものなどいはしないのだ。この抹殺、というより過激な消費の一瞬を作品の中心に据えているが故に、バッド・ベティカーの「ラナウン・サイクル」の西部劇は抹殺さるべきフィルムなのである。理由は、それが映画にとって最も危険な瞬間だからである。瞳とは決して視線ではないにもかかわらず、・・映画は、編集によって見ている者と見られている対象とを画面の連続によって示しながら、あたかもそこに見ることが描き出されているかに錯覚させる手段を開発した。だが、そうした技術的な試みは、結局、映画が視線を撮り得ないという現実を隠蔽したのみで、秀れた作家は、そのことの不自然さを鋭くあばきたてる。だから、最良の作家とは、きまって映画にとっては危険な存在というべきなのだ。

蓮実重彦「七の奇蹟 バッド・ベティカー論」

蓮実先生が指摘するとおり、この映画では、決闘場面でのガンファイトは文字どおり「目に見えない」。ランドルフ・スコットが銃を抜く瞬間は画面に提示されないまま、的は次々に倒されていくという不思議な映画である。それは、蓮実先生の言うとおり、映画が視線を撮り得ないのと同様に銃弾の交錯も撮り得ないという映画的な不自由を暴き立てている。その意味で、「ラナウン・サイクル」の映画は、映画の不自由性を白日にさらし、映画という表現形態の限界を露呈させる危険な作品だと言えるだろう。

蓮実先生の議論は、今読んでも面白いと思う。当時の映画批評が、主題論や俳優論、あるいは技法論に流れがちだった中で、あくまでもフィルムに定着されている映像と音響にこだわり、その推移を「唯物論的」に探求しようという手法は新鮮だった。いまだに映画批評と称してフィルムについて語らず、カルチュラル・スタディズの図式に当てはめて満足してしまっている言説が蔓延している中で、蓮実先生のようなラディカルな思考に触れるのは貴重な経験である。

でも、もちろん、映画の見方は多様である。1956年に制作されたこの映画は、呪われた50年代の作品として論ずることもできるし、西部劇の古典時代を経て透明性と不透明性が葛藤する時代に典型的な作品群の一つとして捉えることも可能だろう。映画が自由であると同様に、映画を巡る言説も自由である。

個人的には、蓮実先生が指摘する「目に見えない」ガンファイト以上に、バッド・ベティカー監督の描く水の美しさと迫力に魅せられた。映画の冒頭、深夜の土砂降りの雨の中、荒野を歩んでいくランドルフ・スコットの姿。一転して、快晴の空の下で泥にはまった馬車をなんとか引き上げようと奮闘して泥まみれになっている夫婦、ランドルフ・スコットの助けで泥を抜け出し、水場で身体を洗う3人・・・。土砂降りの雨であろうと、泥沼であろうと、あるいは昼間の水場であろうと、バッド・ベティカー監督は、水を生々しく描き出す。広がっていくさざ波、そこに映る青空や木々・・・まるで生き物のような手触りすら感じさせる水の魅力にまずは圧倒される。

そして、双子の主題。ランドルフ・スコットとリー・マーヴィンは、元保安官と元罪人という対照的な存在であるにもかかわらず、同じ人妻アニーに想いを寄せてしまう。冷徹なガンマンという点でも似ている二人は、まるで兄弟のようだ。同時に、アニーは実は殺されたランドルフ・スコットの奥さんにも似ていることが、リー・マーヴィンの話から明らかになる。ここでもまた、不在の死者とアニーは双子のように見える。さらにグリーアも最初はどうしようもない男だったのに、いつしかランドルフ・スコットのようにしっかりとした足取りで歩き始めようとする。3人の男と1人の女、そして1人の不在の死者。この5人の関係が、双子の主題を通じて共鳴し合い、互いに似ていく中で、最後に残された者たちが、再び死者たちの振る舞いを模倣しようとする物語。

西部劇であるにもかかわらず、ガン・ファイト以上に、こうした登場人物達の関係性の変容が気になる不思議な魅力を持った映画である。

シェア!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。