西河克己監督「潮騒」

西河克己監督「潮騒」を見る。1975年作品。主演は、山口百恵と三浦友和。1970年代には、この組み合わせで「伊豆の踊子」、「潮騒」、「絶唱」、「春琴抄」、「霧の旗」を撮っている。ある意味で、70年代の日本映画界を代表する組み合わせである。

西河克己監督は、1952年の「伊豆の艶歌師」から1992年までの「一杯のかけそば」に至る長いキャリアを通じ、常にベテラン監督として安定した作品を撮ってきた。60年代には吉永小百合、70年代には山口百恵を主演に黙々とプログラム・ピクチャーを製作し、80年代にも小泉今日子、冨田靖子、秋吉久美子を主演女優に迎えて映画を撮り続けた。その作品は、決してアート系の映画でもなければ実験的な映画でもない。ごく普通に消費され、手堅く観客を動員できる商業映画だけど、そこには確かに「映画」としか言いようのない手触りがある。同時期、毎年、正月に恒例のマンネリ喜劇映画を撮影し続けたインテリの映画監督には決して表現できない何か、である。

西河克己監督の作品を論ずることは難しい。彼は、「伊豆の踊子」、「若い人」、「青い山脈」、「帰郷」、「絶唱」・・・と他の監督の作品をリメイクし、さらに自作までリメイクした。他人の物語をリメイクした映画にオリジナリティを見いだす映画評論家はいないだろう。その意味でも西河監督は、プロフェッショナルに徹した監督だと思う。

でも、その映画には、単にベテラン監督と言ってやり過ごすことができない、ただならないものが漲っている。僕がそれを初めて「発見」したのは、1963年版の「伊豆の踊子」である。吉永小百合と高橋英樹の共演によるこの映画は、川端康成原作で何度も映画化された作品である。しかし、この映画で吉永小百合が座敷に上がって踊る時の虚無感は尋常ではなかった。踊り子だから、当然、声がかかれば踊る。それは職業として当然のことだし、ほとんど教育を受けていない踊り子の内面などたかがしれているはずである。しかし、西河監督は、吉永小百合のどこかこの世界から遊離したような視線を画面に定着させることで、ある種、この徹底して理不尽で矛盾に満ちた世界に生きることの虚無感を表現して見せた。この映画を見た時、たかがアイドル映画でこんなことまでできるのかと僕は呆然としたことを覚えている。もちろん、それは吉永小百合という女優の演技の力もある。高橋英樹との別れや、あるいは偶然に出会った肺病を病む娼婦の無残な最後という伏線もあるだろう。でも、それを超えた何かが、そこには厳然と表現されていた。これは西河監督の才能としか言いようのない何かなんだと思う。

それは、「潮騒」でも同様である。この映画の第一印象は、フレームの内部が徹底的に充実していることである。ほとんど遠景の場面がない限られたフレームの中に、多くのものが詰め込まれている。久保新治(=三浦友和)の貧しい家の中、宮田初江(=山口百恵)の実家の祭壇、二人が初めて出会う狭く急な坂道、二人が初めて心を通わせる夜の浜辺・・・。すべての場面において、背景はごたごたした家具や食器、あるいは何台も並んだ漁船で埋め尽くされ、画面に隙がない。さらにそこに音楽が重なる。島の様々な民謡、山口百恵が歌うテーマ曲、ふと登場人物が口ずさむ歌謡曲・・・・。映像と音響の充隘が次から次へと繰り出されていく。映画を見ることの喜びを感じる。

そして、圧倒的な火と水。有名な山上の灯台での二人の邂逅シーンにおける焚き火についてはいまさら語るまでもないだろう。二人は、圧倒的な暴風雨の中、ずぶ濡れになって焚き火を囲み、そして互いの愛を確認する。この二人の愛情は、常に火と水と共にある。

初江は、島の唯一の水源から水を汲む始めることで映画に登場する。彼女は、映画の冒頭から水を操る存在だった。そもそも、二人が初めて出会う場面は、初江が慣れない水くみに出かけ、坂の途中で水桶をひっくり返して新治の服を水浸しにすることから始まったことを忘れてはならない。

これに対し、新治は火を操るものである。二人の邂逅シーンで焚き火を起こすのは新治である。新治は、自宅で常に囲炉裏のそばに座って炭の熾火をかき立てている。新治にとって、火は常に親しい存在である。ただし、その火は神聖なものでなければならない。だから、新治は、彼に想いを寄せる女子大生からライターを贈られても毅然として断り、さらに「火気厳禁」と書かれた船上でたばこを勧められても断る。火を操るものとして、新治は人工の火の危険性を十分に理解している。

こうして物語は、火と水を軸に進んでいくだろう。初江が新治の母と和解するのは、アワビ取りのために海中深く潜った後、その身体を温めるために皆で焚き火を囲んでいる場面である。水の女、初江は深く水中に潜り、他の誰よりも多くのアワビを採集することができる。しかし、初江は、他の女達が集う焚き火に近寄ることができない。彼女は、女達に声をかけられ、徐々に警戒を解いてようやく焚き火のそばに赴くことができるのだが、その振る舞いによって初めて火に親しみ、火を操る新治の母とも和解が可能になるのである。

映画のクライマックスは、遠洋航海中に暴風雨に遭った船を救うために新治が英雄的な行動に出る場面である。新治が危険を冒して船を救うために荒海に飛び込む時、水の女である初江は、遠く離れた島の自宅で一心に新治の無事を初江が祈る。まさに水を操る女が、その呪力によって愛する者を救おうとする。原作者の三島が描こうとした素朴な島の神話的世界は、このように火と水を介して共鳴し合う二人の男女を通じて描き出される。このことに十分自覚的な西河監督は、このクライマックス場面が始まる前に、さりげなく島の通信施設の停電シーンを挿入する。それは、社会的にも地理的にも離れることを余儀なくされた男女が、距離を介して交感し合う神話的世界に移行するためにどうしても必要な儀式だったのだろう。

たぶん、西河監督がリメイクにこだわったのには理由があると思う。彼は、オリジナルの物語で勝負するよりも、既に評価が定着した作品を再解釈し、そこに独自の映像と音楽を重ね、さらに神話的思考を導入することに自身のオリジナリティを加えようとしたのだ。ポスト・モダン的思考などが喧伝されるはるか以前からこんな批評性の高い作品を作り続けてきた西河監督の作品。僕たちは、ようやく西河監督作品の真価を発見しつつあるのかも知れない。

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