「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展@東京都現代美術館

オラファー・エリアソンの作品と初めて出会ったのは、ニューヨークのハドソン・リバーの「瀧プロジェクト」。豪快な作品に驚いたけど、その時は、ああまた大規模な野外アートプロジェクトを仕掛ける人が出てきたのか、と言う程度で流してしまった。しかし、その後、MOMAと別館のPS1で開催された本格的なエリアソンの回顧展を観て気に入ってしまった。PS1というのは、パブリック・スクールを改修したオルタナティブ・スペースで、学校の教室を巡る感じでアートを楽しむことができるところ。そこで、エリアソンが仕掛ける多様な光のアートを体験しているうちに、自分自身の感覚の変容に気づき始めるという不思議な展覧会で、僕は心底彼の作品世界に惚れ込んでしまった(その時の様子は、昔のブログで紹介しているのご覧下さい。「オラファー・エリアソン:光の魔術師は観客の感覚を変容させる」「オラファー・エリアソン再び」)。

あれから10年以上が過ぎた。この間、エリアソンの作品世界は大きく変容を遂げたように感じられる。テート・モダンのホールに巨大な太陽を出現させて話題をさらった光のアートの作家は、徐々にその関心を自然へ、さらに持続可能性へとシフトさせたようだ。今回の「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展は、こうしたエリアソンの変容をきちんと辿っている点で好感が持てる。

例えば、冒頭に置かれた「あなたの移ろう氷河の形態学」や「クリティカルゾーンの記憶」シリーズ。一見すると、よくある抽象画のように見えるけれど、前者は氷河が溶けていくプロセスをそのまま平面に定着させたもので、後者はドイツからシベリア鉄道を経て日本まで作品を運送する際の振動の軌跡をそのままドローイング作品にしたものだ。両者共に、エリアソンは作品制作の仕掛けを設定するだけで、作品の完成自体は自然のプロセスに委ねられる。だから、エリアソン自身も、最終的に作品がどのようなものとなるかは完成するまで分からない。

これはアートだろうか?と疑問に感じる人がいるかもしれない。しかし、こうした偶然性に委ねるアートには長い歴史がある。

すぐに思いつくのは、ジョン・ケージのチャンス・オペレーションのアート。ジョン・ケージは、作曲のプロセスに易占いを導入することで、チャンス・オペレーションという新たな音楽ジャンルを切り拓いた。それだけでなく、アートの世界でも同様の試みを行っている。例えば、彼の「川の石と煙」シリーズは、ペーパーの上に川から拾ってきた石を置いて型取りをし、さらにその石に酸などをまいた上でスモークを焚いて複雑な模様を創り出す。紙に火をつけて焼け残った部分をアートとして展示するという試みもある。鈴木大拙のコロンビア大学における禅の講義を聴講したほど東洋好きだったジョン・ケージにとって、「無私」「自然」をコンセプトにアート制作を行うことに違和感はなく、むしろそこに積極的な意義を見いだしていたように見える。

日本でも、例えば柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム」のように、ガラス箱の中に砂を詰めて国旗を描き、その中に蟻が巣を作ることで作品を変容させていくというプロジェクトがある。考えてみれば、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングもアーチストの身体の即興的な動きに強く依存しているわけだし、ジェームズ・タレルの光のアートも外光の移ろいを作品として定着させたものだ。アートに自然のプロセスを導入し、ある意味で偶然性に作品の完成を委ねることは、それほど奇をてらったものではない。

そして、多分、日本人にとって、この発想はとても親しみ深いものではないだろうか。代表的な例が「楽焼き」に代表される日本の陶磁器の世界である。中国や韓国の洗練され完璧なフォルムを持った陶磁器に比べて、日本の陶磁器はむしろ形の崩れや釉薬の微妙な変容を重んじる。人工的で完成された美よりも、むしろ火を入れる過程で生じる様々な自然現象がそのまま作品に定着されているものを愛でる。書も同様である。完璧な形態よりも、書家が制作の際に身体で感じている気候や風土、あるいは精神の状態が筆を通じて顕現していることを好む。日本人にとって、アートとは強烈な自我を持った作家が隅々まで計算し尽くして構築した美よりも、できるかぎり作家が主体性を消し去り、四季の移ろいや世界の循環が作家を通じて顕現する一瞬を定着させた作品の方が評価されるようだ。その背景には、かつて亀の甲羅に熱を加えて生じた亀裂から将来を占った亀卜や街角に立って人々が何気なく口にした言葉に基づいて将来を占った辻占いなどの呪術的な思考が、日本人の中に綿々と継承されていることがあるのだろう。

話が横道にそれてしまった。エリアソンの作品である。今回の展覧会では、まさにジョン・ケージにオマージュを捧げたようなペーパー作品も展示されている。ぶっきらぼうに文字と記号が書き付けられたこの「Spheres of Power and Care」シリーズには、狩野派のたらし込みの技法を思い起こさせるような、偶然性に委ねられた作品の美しさが感じられる。

特にエリアソンが関心を持っているのが、地球温暖化問題。彼は、これまでも、「溶ける氷河のシリーズ」で失われつつある氷河地帯の風景を数十年かけて空撮により定点観測し、地球温暖化に警鐘を鳴らしてきた。北極の氷河を都市に運び込んで観客に実際に触れてもらい、それが「溶ける」様子を実感してもらうというプロジェクトもある。今回の展覧会では、エリアソンが立ち上げた「サステナビリティの研究室」が紹介されている。エリアソンは、このラボで、環境負荷の少ない材料や形状の研究を重ねているとのこと。こういう形で、アートを制作しながら世界と向き合い、行動していくエリアソンの生きかたには本当に頭が下がる。

もちろん、今回の展覧会には、エリアソンの昔からのテーマである「光」を体験する作品も多く展示されている。それはとても神秘的で美しく、さらに楽しく参加できるものもある。たぶん、エリアソンの中では、この光を巡る作品群と、現在のサステナビリティを巡る作品群の間には断絶などないのだろう。光はものとして触れたりすることができず、仮に画面に定着してしまうと、その微妙なきらめきが失われてしまう。光だけが持つ繊細な移ろいの美を感じとるためには、自分自身の心と体と感覚を解放していくしかないのだ。エリアソンの光を巡る作品は、そうした感覚を解放させる場を設定することから出発したわけだけど、そのプロセスを通じて自然への共感が育まれ、人と自然の関係のあり方へと思考が展開していく中で、サステナビリティと言うテーマが浮上してくるのは、ある意味で当然のような気もする。そこでは、アーチストは、表現者から媒介者へと役割を変容させる。エリアソンもまた、他の一群の魅力的な現代アーチストと同じように、地球や自然と交感し、そのメッセージを表現として定着させるシャーマンのように思える。ぜひできるだけ多くの人に観て、感じてほしい展覧会である。

(ちなみに、この展覧会の詳細な情報は、エリアソン自身が開設したサイトで楽しむことができます。もちろん、実際に展覧会場に行かないとこの魅力は分かりませんが。。。)

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