大林宣彦監督「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」

大林宣彦監督「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」を観る。4月に公開される予定だったけど、新型コロナウィルス感染拡大による緊急事態宣言で上映が延期になっていた。期せずして、4月の公開予定日に大林監督が亡くなり、遺作となったという曰く付きの作品。大林監督は、前作「花筐/HANAGATAMI」のクランクインの日に肺がんがステージ4まで進行していると公表。余命3ヶ月と宣告されながら、花筐を完成させ、さらに2年をかけてこの映画を完成させた。まさに大林監督の人生の集大成とも言える作品である。

実際、この映画、キャストだけでもすごい。尾美としのり、常盤貴子などの大林組常連から、浅野忠信、満島真之介などの過去の大林作品出演者、そして稲垣吾郎、片岡鶴太郎、渡辺えり、白石加代子、武田鉄矢、高橋幸宏、小林稔侍までの俳優たち、そして手塚眞や犬童一心などの映画監督までが、この作品に駆けつけた。大林監督の最後の作品に関わりたいという関係者の思いが詰まった映画でもある。

舞台は、尾道の海辺の映画館。街の人たちに親しまれてきたこの映画館も今日が最後の日。戦争映画のオールナイト上映に人たちが集まってくる。そこで、謎の少女、希子を追ってスクリーンに飛び込んだ3人の若者が、幕末の動乱から日露戦争、日中戦争、そして太平洋戦争へと続く近代日本の戦争をめぐる映画の物語に巻き込まれ、希子と3人の娘たちの命を救うべく奮闘する。やがて、映画の舞台は1945年8月6日の広島へ。彼女たちが所属する移動劇団「桜隊」を原爆の災禍から救うべく奔走する3人の若者は愛する女たちを救うことができるのか。。。

正直、1本の映画で10本ぐらいの映画を観た気分になるぐらいの濃密な時間を過ごしてしまった。池田屋事件、巌流島の決闘、白虎隊と娘子隊、日露海戦、満州事変、日中戦争、沖縄戦、そして広島への原爆投下・・・。川島芳子が暗躍し、坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通が明治維新のために奔走し、近藤勇や土方歳三たち新撰組が殺戮を繰り返したかと思うと、日中戦争の前線で小津安二郎と山中貞雄が語り合い、戦後の広島を撮影しに来日したジョン・フォード監督が幼き日の大林宣彦とすれ違う・・・。

日本の近代史と大林の個人史が交錯し、嘘から出た真として虚実の皮膜を越えた新たな虚構世界が構築される。そこでは、観客と登場人物が自由に往来し、映画の物語がそのまま現実に接続する。映像と字幕と音楽が融通無碍に共鳴し合い、引用される中原中也やランボーの詩が映画のテーマを多層化していく。時折、大林宣彦監督自身が登場し、座敷童が見守る中で調律のはずれたピアノを演奏する。圧倒的なイメージの奔流。これが大林ワールド。

映画を観ながら、近代日本の歴史に思いをはせる。大林監督がこの作品で明確に述べているように、近代日本の歴史は戦争と殺戮の歴史であり、女性を蹂躙する歴史だった。文明化や経済成長と表裏をなす暴力と抑圧。第二次世界大戦中、多くの兵士や市民が日本軍の手によって殺されていき、強姦された。その暗い歴史を描きつつ、映画は停滞も深刻化もせずにものすごい速度で進んでいく。良質なミュージカルやアクション映画を観ているようなスピード感。よくこれだけのテーマを一つに映画にまとめたと思う。大林監督の執念を感じる。

この映画は、久々に大林監督が故郷の尾道を舞台に撮影した映画でもある。この映画を観た後で、改めて尾道三部作を振り返ると、大林監督はあのころからほぼ半世紀にわたる映画製作の中で一貫したテーマを追求してきたことが分かる。戦争で亡くなった人たちを追憶しながら戦後を生きると言うことはどういうことか。記憶だけが生者と死者をつなぐものであるならば、どのように死者を想像力の中で生き返らせることができるのか。その問いに答えることが大林監督の映画製作の原動力だったのではないかと感じられる。

この映画のすべての場面において、映像の密度とエモーションの強度が維持され、色彩と音響が氾濫する。多分、今まで経験したことがなかったような映画体験がここにある。映画館で観るべき作品だと思う。それが、この偉大な映像作家への最大の追悼になるだろう。

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