鈴木卓爾監督「嵐電」
鈴木卓爾監督の映画には、何かとても大切なものが詰まっている。それはとてもささやかで、注意して意識していないとするっと手から抜け落ちてしまうようなかすかなものだ。子どもの頃に大切にしていた宝物を押し入れの隅で発見した時に、ぼんやりとした明かりが心の中に点るように、鈴木監督の映画でその大切なものに出会ったら、一瞬、僕らはこのどうしようもなくタフでハードな日常から遊離し、懐かしく優しい空気に包み込まれる。その貴重な時間は束の間しか続かないけれど、それでも僕たちはまだ自分の中のどこかにそんな柔らかいものが残っていたことに気づいて勇気づけられる。。。
最新作の「嵐電」もそんな映画だ。この映画は京都の嵐電と、それをめぐる3組のカップルの物語である。嵐電をめぐる怪談を集めている作家の平岡とその妻、青森から修学旅行でやってきた女子高生の南天と彼女が一目惚れする嵐電マニアの少年、そして映画撮影のために太秦を訪れた男優の吉田に偶然、京都弁の指導をすることになった嘉子。映画は、この3組のカップルが嵐電をめぐって展開する恋模様を描いていく。狂言回しを担うのは、深夜にどこからともなく現れる妖怪電車。狐と狸の夫婦が車掌を務めるこの電車に乗ってしまうと、カップルの心は離れてしまうと言う都市伝説がまことしやかに語られている。。。
でも、こんな風にストーリーをまとめてみても、この映画の魅力は決して伝わらない。そもそも、鈴木監督も、丹念に物語を追うことにあまりこだわっていないような気がする。それよりも、鈴木監督は、嵐電をめぐる場所や人たちを優しい手つきで描いていく。それは例えば、「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」という不思議な名前を持つ駅だったり、様々な型番と外装でユニークな特徴を持つ一つ一つの嵐電の車両だったり、嵐電の近所の風景だったりする。
印象的な場面がある。駅のコーヒーショップで、近所の人たちが昔8ミリカメラで撮影した映像を持ち寄って上映会を開催する。それぞれ時代も撮影者も異なる映像が次から次へと展開される。そこに映し出されているのは、嵐電が走ってきた歴史と時間の堆積。近所の人たちの若かりし姿が映し出され、それに現在の彼らの姿が重ねられる。今の風景と変わらぬ景色が映し出されていることもあれば、もう失われた建物が映し出されて人々の思い出を呼び覚ますこともある。嵐電は、便利な交通手段である以上に、こうした人々の記憶と想いを呼び覚ます依り代のようなものだった。
ところが、しばらく見ていると、その画像の中に、現在の風景や虚構の歴史が入り込んでいることに気づく。誰も8ミリで撮影したわけでもないはずなのに、なぜか登場人物のカップルが登場し、さらに彼らの過去の姿が映し出される。嵐電を通じて人々は記憶を呼び覚ますのか、それとも人々の記憶の中で嵐電が召喚されるのか。過去と現在が微妙な揺らぎを見せ、やがて現実と虚構が交錯する。ビデオが登場する前、家族の姿を捉える主役だった8ミリという懐かしいフィルム形態がノスタルジアをかき立て、映画の虚構性を際立たせていく。もしかしたら、8ミリというとてもパーソナルでフットワークの軽いフィルムだからこそ、こうした現実と虚構の曖昧化を起こしてしまうのかもしれない。
そして、どこか現実から遊離している登場人物。それは、たとえば鈴木監督の「私は猫ストーカー」の主人公のようだ。彼女は、ひたすらノラ猫を追いかけている自称「猫ストーカー」として、いなくなったバイト先の猫を探し求めて街を歩いている中で男の子と出会うけれど、どうもうまく付き合えなかった。同じように、嵐電でも、映画俳優に心惹かれる嘉子は、ちょっとした相手の反応がうまく理解できず、「自分は自信がないからそんな風に否定されるとどうして良いか分からない」と叫ぶ。そういう、世界に対するちょっとした違和感のために孤独を感じている彼女らの行き場のない気持ちを、鈴木監督は優しい手つきですくい取り、温かく抱きしめる。このやりとりは、映画の中で場面を変えながら繰り返されるだろう。差異と反復。変わることと変わらないこと。彼女らの微妙な感情のあやに寄り添いながら、気がついたら映画は人生の本質についての思索を展開し始める。
あるいは、映画史へのオマージュ。路面電車の嵐電を映し出すカメラは、ムルナウの名作「サンライズ」へのオマージュを捧げるように夜の闇に浮かび上がる路面電車を繊細に画面に定着させる。そして、ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」に導かれるように、嵐電でも夢遊病者のように登場人物のたましいが浮遊し、別の物語を刻み始める。1920年代のドイツ表現主義映画で流行した技法が、令和の日本のカラー映画でよみがえる。映画の初期の素朴な技法であるにもかかわらず、それは懐かしく新しい。登場人物の魂が勝手に動き始める映像を見ていると、空間も時間も、このように揺らぎに満ちており、現在には深く過去の記憶が埋め込まれていていつでも現実化は可能なのであり、人は永遠の愛を信じようとしても変わっていくんだということメッセージが伝わってくる。鈴木監督は、それを大上段に振りかざすのではなく、嵐電の地下通路や夜の踏切でさらっと語りきってしまう。見ていて本当に心が躍る。
この映画は、クラウドファンディングで資金を集め、製作には京都造形芸術大学の学生が参加している。製作プロセス自体がとてもインディペンデントな作品である。でも、そこにはインディペンデントな作品にありがちなチープ感も素人臭さもない。むしろ、日本の主流である「製作委員会方式」で撮られている商業映画よりも、はるかに高いクオリティと深い世界観を持っている。何か大きな事件が起こるわけでもないのに、その世界に没入し、何時までも終わってほしくないと感じながら何時間を過ごすことができる。たぶん、それはインディペンデントだからこそ可能になったのだと思う。ぜひいろいろな人に見てほしい傑作である。あがた森魚の映画音楽も聞き応えがある。お勧め!