高畑勲監督「かぐや姫の物語」
宮崎駿の「風立ちぬ」製作ドキュメンタリーをテレビで観ていたら、高畑勲さんが映っていた。言うまでもないけれど、2人は「ルパン三世」や「アルプスの少女ハイジ」、「母をたずねて三千里」などのテレビ・アニメ以来の盟友であり、スタジオジブリを立ち上げた仲間でもある。宮崎駿さんは、「風立ちぬ」の製作の過程で、「ぱくさん」こと高畑勲さんのことを強く意識していた。そもそも、彼が引退宣言を撤回して「風立ちぬ」を製作し始めたのも、高畑監督が「かぐや姫の物語」の製作を始めたのがきっかけとのこと。宮崎監督にとって、高畑勲という存在はそれほど大きなものだった。僕は、あまり高畑さんの作品は追いかけてこなかったけれど、ちょっと気になってDVDを借りてくることにした。
考えてみれば、僕らの世代はこのコンビのテレビ・アニメを観ながら育った世代である。高畑さんがOプロダクションで製作した「セロ弾きのゴーシュ」も公開時に観にいった。アニメでこんなに優しく、物語性の濃い映画が作れるんだと感動したのを覚えている。映像表現も音楽も素晴らしかった。でも、その後は宮崎アニメは追いかけても高畑さんの作品はまったく追ってこなかった。なぜだろう?国立近代美術館で開催されていた「高畑勲展ー日本のアニメーションに遺したもの」もすごく気になっていたけれど、結局、行き損ねてしまった。よく分からない。縁がなかったというしかないのかもしれない。
今回、「かぐや姫の物語」を観て、改めて彼の才能を実感した。水墨画のようなタッチのアニメは、中国でも作られているけれど、この柔らかな線と淡い色彩の美しさは、やはり日本的な美意識だと思う。動きも滑らかで活き活きとしている。何よりも、かぐや姫が何かに取り憑かれたように疾走する場面の緊張感が素晴らしい。これまでの柔らかなタッチが一転して、強く荒々しい線が画面上にのたうつように動き回る場面は、かぐや姫の心の闇を視覚化して圧倒的な迫力だった。こんな完成度の高いアニメを生み出すことができるジブリの底力を実感した。
そして、原作にはない最後の飛翔場面。最初、何が起きたのかよく分からなかったけれど、気づいた時にはもう完全にその画面に没入してしまった。これは、映画館の大スクリーンで観たかったと激しく後悔しました。高畑さんの長いアニメ作家としての集大成とも言える場面だなと思います。
こんな風に、申し分のない作品なんだけど、やはり高畑さんの作品を観ると、宮崎駿さんの作品世界と比較してしまう。どちらが良いと言うことではないと思うんだけど、高畑さんの作品はどこか近代的というか理性的というか、分析の上に構築されているという印象があります。宮崎さんの作品のように、理屈を越えてただ画面上に展開する動きに酔いしれ、大きな物語に巻き込まれていく感覚は高畑さんの作品にはありません。やはり高畑さんは、知性の人であり、演出の人だなと感じました。
余談ですが、今回、ブログを書くに当たって、ウィキペディアで高畑さんの略歴を確認したら、東大の仏文の同期に大江健三郎や海老坂武がいたのですね。これは知りませんでした。東映動画時代は労働組合活動に従事し、生涯、共産党を支持したというのも発見でした。ある時代の知識人の典型のような人が、作画もできないのに一生をアニメ監督として過ごし、圧倒的な才能を持った宮崎駿という存在を常に意識しながら送った人生。予算管理が甘く、完璧主義者で締め切りは守らず、スタッフには厳しいハードルを課したというエピソードを読みながら、なんだかちょっと辛そうな人生だなという印象を持ちました。ご本人はどう思っていたか分からないけれど。
とはいえ、僕らの世代の感性を育む傑作を送り出し続けてくれたことにはただ感謝あるのみです。