「バンクシー展 天才か反逆か」@アソビル
巷で噂の「バンクシー展 天才か反逆か」を観る。会場は横浜アソビル。反体制のストリート・アーチストであり、アート市場そのもののあり方に対しても疑問を呈するバンクシーの貴重な作品を見ることができる展覧会。ただし、バンクシー本人は、この展覧会をオーソライズしてはいない。展示されている作品も、本人の承諾なく勝手にストリートから回収された作品を「購入」したコレクターの収集作品を集めたものである。コレクターが「購入」の際に支払った巨額の代金のほとんどはバンクシー本人ではなく、勝手に回収された作品を「販売」するアート・ディーラーに支払われる。今回の展覧会の入場料収入も、おそらくはバンクシーではなく、主催団体の懐に入るだろう。バンクシー展でありながら、作品はあっても作家が不在であるという奇妙な展覧会。
とはいえ、そんな難しいことを考えなくても楽しめる展覧会に仕上がっている。会場に入ると、まずはバンクシーの「アトリエ」が現れる。もちろん、この展覧会は本人のオーソライズを受けていないので、これもフィクションである。でも、それらしい雰囲気がある。何より、黒い装束に身を包み、フード付きのパーカーで顔を隠したバンクシーの姿がいかにもそれらしい。意外と、バンクシーはこの展覧会に協力しているのではないかという錯覚に捉われる。
この後は、バンクシーワールド全開。まずは資本主義と消費主義を皮肉った作品が並ぶ。バーコードの檻を破って外に出たヒョウ。セールスが終わってしまったことを嘆くキリストの使徒とマリア。ピース・ワッペンの顔をした死神・・・・。現代社会が抱える問題を、痛烈に皮肉った作品の数々は、それがモノクロームで精密に描かれているためにいっそうパワフルになる。
さらにそのメッセージは、警察や軍などの圧倒的な武力に対する反発へと進化を遂げていく。再びピース・ワッペンの顔をした兵士や警官。これに対して、バンクシーの代表作の一つである花束を持ったプロテスターが対比される。少女や少年たちが、兵士と共に描かれることで、圧倒的な暴力と無力な人々の違いが際立つ。バンクシーの怒りが際立つようだ。
それは、バンクシーがパレスチナに設置された壁に描いた壁画や、壁のそばのホテルの一室に作成したインスタレーション、さらにディズニーランドをパロディしたディズマ・ランド(=陰気な土地)で頂点に達する。これまでの消費社会や資本主義社会への皮肉を描いた作品シリーズと、民衆デモを鎮圧する国家権力への批判が融合された作品群。しかも、ちゃんとアートになっているところがすごい。オーソライズされていないとはいえ、よくここまで集めたと驚く。よくできた展覧会である。
とはいえ、バンクシーのこれだけ明確なメッセージが、来場者にきちんと伝わっているかというと、かなり疑問である。パレスチナのホテルのインスタレーションの前で記念写真を撮っている若い女性の二人組。彼らは、ただインスタ映えしている画像を撮りたいだけのように見える。ディズマ・ランドの映像インスタレーションでも、別の女性二人組が、「これ結構可愛い」を連発していた。彼らは、バンクシーの作品の背景にあるパレスチナ問題とか、アメリカ警官による有色人種のプロファイリング問題などを理解しているのだろうか。。。仮に知識として知っているとして、そうした問題に対する痛みを共有できる想像力を持っているのだろうか。
誤解のないように大急ぎで付け加えれば、僕は別に彼女らを一般化するつもりはまったくない。たまたま僕が見ていた時間帯に、たまたま若い女性の二人組の行動が目につき、たまたま彼らがパレスチナ問題や米国の黒人差別問題に関心も知識もなかっただけかもしれない。同じことは、男性でも、中高年層でも、起こりうる。それに、現在、全国で大盛況のビエンナーレやトリエンナーレに来る人たちにも、作品の背景など意識しないでインスタ映えする写真を撮って満足する人たちはたくさんいるだろう。アートがそのような形で消費されるのは、ある意味で仕方がないのかもしれない。
ただ、欧米の美術館を回っていると、子供達やシニアの人たちを対象としたガイド・ツアーによく出会う。そこでは、作品のテーマや技法について、深い議論が行われている。それは、アートについてのリテラシーを高めるという目的だけでなく、アートを通じて他者や社会に対する想像力を育み、ひいては市民として公共を担うための準備作業でもある。こういうことがおろそかにされる社会というのは、結局、自立した個人を育成することができず、活力と創造性を失ってしまうのではないだろうか。。。
バンクシー展を見ながら、柄にもなく、厭世的な気分になってしまった。おじさん化が進行しているのかもしれない。「今時の若い者は・・・」なんて言い始めたら終わりだから、気をつけなければ。。。