ダグラス・サーク監督「アパッチの怒り」

BSシネマでダグラス・サーク監督の「アパッチの怒り」が放映されたので早速、鑑賞。1954年の作品。出演はロック・ハドソン、バーバラ・ラッシュ。ダグラス・サーク監督は、この前後に、二人を使って「自由の旗風」や「心のともしび」なども制作している。きっとお気に入りだったのだろう。

シネフィルにとって、ダグラス・サーク監督はある種、神話的な存在である。サーク監督はドイツ出身で1930年代には「第九交響楽」「思ひ出の曲」「世界の果てに」「南の誘惑」などの傑作を撮る。しかし、1937年、ナチス政権を避けてアメリカに亡命。1950年代に精力的にメロドラマを監督した。当時の作品には、「心のともしび」「風と共に散る」「愛する時と死する時」「悲しみは空の彼方に」などがある。1959年にドイツに帰国してそのまま引退してしまった。

サーク監督は、アメリカでは通俗的なメロドラマを撮った職人監督とみなされていたが、既に50年代からゴダールはその価値を発見し絶賛していた。また、その後、タランティーノやトッド・ヘインズ、アルモドバル、ウォン・カーウェイ、デビッド・リンチ、ラス・フォン・トゥーリアなどの名だたる映画作家たちがサーク監督の作品にオマージュを捧げている。僕らの世代は、ダニエル・シュミット監督のドキュメンタリー映画「人生の幻影」で彼の偉大さを「再発見」した。

「アパッチの怒り」は、ダグラス・サーク監督が撮った唯一の西部劇であり、また1950年代に制作された数少ない3D映画としても知られる。残念ながら、BSでの放映版は3Dではなかったけれど、やたらと縦の構図を使い、高低差のある画面づくりをしているところから、3Dの奥行きをかなり意識したことが感じられる。いずれにせよ、こんなレアな映画を放映するなんて、さすがはBSシネマである。

物語の舞台は、アパッチ戦争が終結し、3年が経ったアリゾナ州。講和条約に基づき、ネイティブ・アメリカンたちは平和に暮らしていた。しかし、講和条約の立役者、チリカワ族の族長コチーズが亡くなり、族長の座をターザ(=ロック・ハドソン)に譲ったことで、不穏な空気が流れはじめる。ターザの弟ナイチェは、白人を憎悪し、また兄と相思相愛の仲にある長老グレイ・イーグルの娘ウナ(=バーバラ・ラッシュ)に横恋慕していたのだ。ナイチェが暴走して白人を殺害したため、チリカワ族は講和条約に基づいて連邦政府が指定する居留地に強制移住を命じられる。さらにそこに、コチーズと対立して徹底抗戦を主張し、まだ白人への戦争を諦めていないジェロニモたちアパッチ族が移送されてきて。。。

ダグラス・サーク監督は、一見すると単純そうに見えるメロドラマの中に、複雑な社会的対立を導入する。それは、「アパッチの怒り」でも同様である。ネイティブ・アメリカンの中でも、ジェロニモ率いる好戦的なアパッチ族とターザ率いるチリカワ族の対立がある。チリカワ族の中でも、ナイチェや長老たちは白人に敵対的だ。では、白人はどうかというと、ターザと親交を結び、彼を支援するバーネット大尉と、騎兵隊を指揮し連邦政府の命令に忠実にネイティブ・アメリカンを弾圧することを辞さない将軍との対立がある。さらに、ターザとナイチェの対立、長老グレイ・イーグルとその娘ウナの対立・・・と登場人物たちは、それぞれの立場や主義を背負って身動きが取れなくなり、無用な対立を繰り返す。

さらに、こうしたさまざまな葛藤を解消しようと尽力するターザやウナも、その行為があだとなってさらに深い敵意に巻き込まれていく。ターザは、ネイティブ・アメリカンの独立を保つために、自ら志願して居留地の自衛警察の役を買って出るが、そのことでかえって長老たちの反発を買う。ウナも、愛するターザの身を案じて長老たちの悪巧みをターザに伝えるが、そのことによって父のさらなる怒りを買ってしまう。サーク監督は、西部劇であろうがメロドラマであろうが、人々の中にアイデンティティ・ポリティックスを組み込み、複雑に張り巡らされた対立関係の網の目に観客たちを巻き込んでいく。

他方で、こんな複雑な物語を動かしながら、サーク監督はスピード感あふれる演出で荒野での戦闘や追撃、あるいは砦の奇襲などを描いて西部劇としての醍醐味も味わせてくれる。アパッチ砦の奇襲の場面など、そのたたみかけるようなアクションの推移と、意表を突くコミュニケーション手段でスピード感あふれる素晴らしいシーンに仕上がっている。観客は一瞬、何が起こっているか分からないまま、ただその流れるような演出に息をのむだけだ。一体、ダグラス・サークという人はどんな才能の持ち主なんだろうか。この複雑な物語をアクションと戦闘場面をきちんと交え、最後にはもちろんメロドラマの定石として恋の成就まで描いて80分という上映時間に収めてしまう演出には本当に舌を巻く。これはすごい。

しかも、他のダグラス・サーク作品同様に、この作品でもアイデンティティを巡るポリティックスが、衣装を通じて視覚化される。ターザとその仲間が、居留地の自衛警察の役割を担うとき、彼らはネイティブ・アメリカンの衣装を捨て、騎兵隊と同じ青い制服を身にまとうのだ。それは、他のネイティブ・アメリカンにとっては裏切り行為以外の何ものでもない。しかし、ターザたちはあえて敵である騎兵隊の青い制服を身にまとうことによって、複雑に入り組んだ社会的対立を乗り越えることは可能だというメッセージを発しようとする。

もちろん世の中はそんなに簡単なものではない。ターザたちは白人との約束を守り、居留地の平和と独立を維持することに奔走するが、白人もジェロニモも長老たちも、あっさりと約束を反故にするだろう。さまざまな約束が反故にされてターザたちの努力が無駄となり、まさに対立が頂点に達したとき、ターザたちは騎兵隊の青い制服を脱ぎ、これを律儀に折りたたんで並べた上で、褐色の裸体をさらけだす。

ここで、衣装の劇である「アパッチの怒り」は、さらに色彩のポリティックスへと移行する。、ジェロニモや長老と騎兵隊が対峙している場にターザたちが乱入する。双方ともに、ターザたちがどちらの側につくかを図りかねて緊張は一気に高まる。騎兵隊の青い制服とジェロニモたちの上半身裸の褐色の肌が高低差を介して向き合っている中に、砂埃をあげてターザたちが突入し、色彩は混交し砂にまみれて騎兵隊の青い服もジェロニモたちの褐色の肌も一様にくすんだ色彩となる。この時、これまで提示されてきた社会的対立は一気に解消へと向かう。この場面は、対立したものが色彩の混交を経て和解に至るというドラマを視覚化した希有な場面として記憶されるだろう。

そして映画の最後、すべてが解消された中で、ターザはウナに贈り物をする。ウナの褐色の肌に、青いネックレスがつけられる。美しいウナの肌に、騎兵隊の制服の青を思わせる青いネックレスが映える。その時、観客はこれまでの対立が解消され、衣装と色彩のポリティックスが終焉を迎えたことを知るだろう。メロドラマの定番として、対立は止揚され、調和が訪れる。凡庸なメロドラマであれば、調和は、偶然の邂逅や思いがけない支援などによってもたらされる。しかし、聡明なサーク監督は、そのような安易なプロットに任せず、身をもって対立を解消すべく奔走する男女の身振りと色彩を通じてこそはじめて調和が訪れるという物語にこだわる。そこがサーク監督作品の醍醐味。

いやはや、50年代ハリウッドを支えたメロドラマ専門の職人監督が撮った唯一の西部劇に、こんな多層的な仕掛けが施されているなんて、やはり映画の世界は奥が深い。BSシネマのありがたさを改めて思い知りました。。。

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