イ・チャンドン監督「バーニング」
イ・チャンドン監督の「バーニング」を見る。2018年の作品。原作は村上春樹の「納屋を焼く」。カンヌのパルム・ドールにノミネートされたほか、アカデミー賞外国映画賞にも出品されるなど、各国で高い評価を得た。アジア映画賞最優秀監督賞、ロサンゼルス映画批評家協会最優秀外国語映画賞、トロント映画批評家協会最優秀外国語映画賞などの各賞を受賞した。韓国国内での主要映画祭での受賞は言うまでもない。
僕は村上春樹の愛読者として、村上春樹原作の映画は真面目にフォローするようにしている。山川直人監督「100%の女の子」と「パン屋襲撃」、市川準監督「トニー滝谷」、大森一樹監督「風の歌を聴け」、松永大司監督「ハナレイ・ベイ」などなど。ちなみに、演劇作品も、サイモン・マクバーニーの「エレファント・バニッシュ」やスティーブン・アーンハルトの「ねじまき鳥クロニクル」も見ている。それぞれに、村上春樹の作品世界を基に独自の世界を構築している作品群だ。
たとえば、「風の歌を聴け」であれば自動車の蛇行運転から転倒に至るオープニングに大森一樹監督独自の青春映画の息吹を感じるし、「トニー滝谷」であれば坂本龍一の映画音楽も含めてシンプルだけど極めて実験的で静謐感ただよう市川監督のテイストを感じる。あるいは、サイモン・マクバーニーの「エレファント・バニッシュ」であれば、ある時、世界はある決定的な断絶を経験しもう後には戻れないという村上春樹的事態が、様々な皮膜におおわれた多元的な世界を象徴する舞台装置によって表現されているのを見いだす。それぞれに、才能あるクリエイターが、村上春樹の世界を解釈し、そこから自分たち自身のメッセージを打ち出している。それは、原作の翻案として当然のことだ。
しかし、イ・チャンドン監督の「バーニング」は、こうした数々の村上春樹原作作品とはまったく異なっている。今までの作品が、村上春樹の作品世界をそれなりになぞりながら独自の世界を築いていたとすると、「バーニング」はまさに映画で村上春樹の作品世界を構築してしまっている。映画そのものが、そのまま村上春樹の小説世界になってしまっているのだ。これは、不思議な事態である。小説世界がそのまま映画にうつされる?まったく何の違和感もずれもなく?
正直、僕もなぜこんなことを考えてしまったのだろうと途方に暮れてしまった。映画は、韓国を舞台にしており、俳優達もみな韓国人で韓国語をしゃべっている。若い恋人達は、神戸のしゃれたジャズバーではなく、ソウルの街中にある居酒屋で酒を飲んでいるし、二人が愛を交わすアパートの一室は窓から南山タワーを見上げることが出来る韓国式のアパートの一室だ。食事も、韓国料理の濃厚なもつ鍋だったりする。そう、たしかにこの映画は韓国映画なのだ。しかもディープに韓国映画なのである。それなのに、この映画は確かに村上春樹の作品世界そのものだという感じがする。なぜだろう?
ひとつの理由は、会話にある。映画の前半は、丁寧に原作のセリフをなぞっていく。あの、村上春樹的な、どこか抽象的で淡々としながらも、何か哲学的な断章が挿入されているような独特の雰囲気を持った会話である。しかも、その会話の流れが、村上作品そのままなのだ。たぶん、誰も聞いたことがないけれど、村上春樹の登場人物が突然生身の身体を得て作品のセリフを語りはじめたらこんな風に語るだろうなという会話のリズムがそこにある(但し、くどいようだけどそれは韓国語なのである。)。
それだけではない。この映画のためにオーディションで選ばれたという女優チョン・ジョンソが、本当に村上春樹的な女の子なのである。どこか透明で現実から遊離した印象を与える彼女が、たとえばパントマイムでミカンの皮を剥く演技を行う時、あるいは唐突にアフリカに行きたいと話し始める時、そこには村上春樹の作品世界にしか生息しないと思われていた女の子が実際にしゃべっているように感じられるのだ。
韓国の都会や田舎の風景が広がっているのにもかかわらず、その夕焼けや暮れゆく青みがかった空が映し出されると、確かにそれは村上春樹的世界だと感じられる。原作にないふとした演出、例えば北向きの彼女の部屋に一瞬、南山タワーの展望台のガラスの反射光が差し込む光の移ろいなど、村上春樹のあの何か時間が止まってしまったような世界そのもののようだ。こうなると、もう奇跡としかいいようがない。イ・チャンドン監督は、たぶん村上春樹の作品を読み込み、その思考を完全に身体化してしまったのだろう。たぶん、彼はオーディションから撮影まで、村上春樹とシンクロして制作を続けていた。映画を観ていると、ついそんな錯覚に陥ってしまう。
もちろん、この映画の後半は、「納屋を焼く」の原作から離れていく。いや、この表現は正しくない。「納屋を焼く」で語られなかったピースを丁寧に埋めていき、必然的に起きるだろう物語を、村上春樹的に構築してしまったのである。原作を読んだ人なら分かってもらえると思うけれど、「納屋を焼く」は不思議な作品である。とても短い短編で、読者は何が起こったのか分からないままにふと途切れるように終わってしまう。でも、「蛍、納屋を焼く、その他の短編」という作品集は、大体がそういう物語なので、普通の人はそのまま読み流してしまうだろう。僕も、そうだった。だから、今回、映画を観て、「そうか、納屋を焼くと言う作品は、こういう話だったのか」と思わずうなってしまった。そう言われてみれば、まさにそれ以外、考えられないぐらいに完璧な物語になっている。やはり、イ・チャンドン監督はただものではない。
この映画は、舞台を韓国に移し替えながらも、原作が持っていた様々なアイテムを活用する。ギャツビィやフォークナーがきちんと引用され、ミカン剥きのパントマイムやアフリカ旅行や突然の訪問やグラスを吸う場面もきちんと踏襲する。もちろん、現代韓国のソウル近郊で納屋を見つけるのは難しいから、ビニール・ハウスに変えたけれど、それ以外のセリフも僕の行動もほぼ同じである。そんな風に、原作のアイテムを活用しながら、さらに、姿を見せない子猫とか、誰もその場所を思い出せない涸れ井戸とか、いかにも村上的なアイテムも導入される。
その上で、イ・チャンドン監督は、自身のテーマをさりげなく提示する。「シークレット・サンシャイン」や「ポエトリー アグネスの詩」でも繰り返し取り上げてきた、ある決定的な悪意の存在である。全能の神の存在を感知しながらも、あるいは感知しているが故に、人間が犯してしまう根本的な罪。それは、まるで人間という存在そのものが背負った原罪のように、あらがいようもなく人を罪に駆り立てる。このテーマは、もしかしたら、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」ヤミクロから始まって「ねじまき鳥クロニクル」の綿谷ノボルに至るまで、村上春樹作品でも繰り返し描かれた来た「悪」とも共鳴しているのかもしれない。
しかし、イ・チャンドン監督は、村上春樹のように象徴的な世界の中でこの悪を処理したりしない。それが、イ・チャンドン監督が決定的に村上春樹と異なる点である。イ・チャンドン監督は、あくまでも現実世界の中で悪と対峙する。その背景には、韓国社会に暗い影を落としている格差の問題、若者の失業の問題、あるいは農村の疲弊などの問題があるのだろう。イ・チャンドン監督は、こうした問題を映画の中にさりげなく描き込む。だからこそ、結末を目にした後のずしりとした手応えは限りなく重い。
本当にすごい作品だと思う。こんな才能あふれるクリエイターが、文化観光部の長官に就任する韓国。韓流ブームが語られがちだけど、こんなクオリティの高い作品が生み出されている映画大国でもあるのだということを改めて実感した。