ジャ・ジャンクー監督「海が青くなるまで泳ぐ」
第21回東京フィルメックスの特別招待作品としてジャ・ジャンクー監督の新作「海が青くなるまで泳ぐ」が上映されるというので映画館に駆けつける。中国の文学者達へのインタビューを通じて、近代中国の変遷を描いたドキュメンタリー映画。ジャ・ジャンクーのドキュメンタリーというと「四川のうた」を思い出す人も多いと思うけれど、あの作品はドキュメンタリーの体裁を取りつつ、出演者はすべてジャ・ジャンクー作品常連の俳優で、きちんと取材をしてその内容を俳優達が再現するというスタイルだった。しかし、今回は、本当に文学者にインタビューしたドキュメンタリー。
とは言え、そこはジャ・ジャンクー監督。文学者達の発言から、しっかりと中国近代史を浮かび上がらせる。描かれているのは第二次世界大戦後、国共内戦に勝利して中華人民共和国の独立を宣言し、農民の「解放」と集団農園の組織化をした躍進時代、朝鮮戦争への参戦、文化大革命、鄧小平による改革開放路線、そして現在の中国の繁栄とその背景にある矛盾などなどである。世代の異なる4人の作家によるインタビューを通じて、それぞれの時代の特徴が浮き彫りとなる。
インタビューは、ジャ・ジャンクーの生まれ故郷の村のエピソードから語り起こされる。中華人民共和国の独立当時、その村は泥湿地で農耕が難しく、貧しい地域だった。状況を改善するために共産党から送り込まれた知識人は、農民を組織して灌漑を行い、徐々に農耕の出来る土壌へと変えていく。同時に彼は、農民の教化活動を行い、自らも作家として執筆を開始する・・・。カメラは、インタビューする作家や肉親の元に飛んだかと思うと、繰り返し、故郷の村に戻ってくる。時には、作家達が、ジャ・ジャンクーの招きによって一堂に会し、自分の体験をスピーチするというイベントも行われる。カメラが故郷に戻る旅に、故郷の姿は変貌を遂げていく。それが、作家達の語る世代の変遷をも表しているところが素晴らしい。中国が近代化によって大きな変貌を遂げたことを実感できる。
近代文学とは、近代的な自我の成立と不可分な関係にある。この意味で、近代文学はテーマも手法も深く西欧的な近代的自己像に深く浸食されている。これを第二次世界大戦直後の貧しかった中国に根付かせるのは不可能だっただろう。だから、中国の近代文学は、中国の伝統的な文学世界と折り合いをつけつつ、徐々に読者層を獲得していくしかなかった。文化大革命の際には、このような欧米から輸入された近代文学そのものが糾弾の対象とされた。そうした大きな流れを、映画は1人1人の作家の肉声と、映像によって示していく。映画のタイトルにもなった「海が青くなるまで泳ぐ」は、まさに、そのような近代文学が中国において受けた経験と作家個人の経験が重なり合ったものである。
しかし、映画が描き出すのはそれだけではない。カメラが文学者を追って中国各地を転々とする過程で、普通の中国人の様々な「顔」が映し出される。その顔の多様性に圧倒される。本当に中国は民族のるつぼだなと実感するぐらい、それぞれの顔が違うのだ。と同時に、このような普通の中国人の顔が延々とアップで映し出され続けるのを見ていると奇妙な感覚に襲われる。インタビューの対象となる作家やその肉親達の顔と、カメラに映し出される中国の一般大衆の顔がまったく異質で、同じ中国人とは思えないからだ。これは、「知識人と大衆」の対立図式を表現しているのだろうか、あるいは近代的自己を確立した作家と、そうでない一般大衆を対比させているのだろうか。確実に言えるのは、この映画のカメラは意図的に普通の中国人の多様な顔を延々とクローズアップで撮影し続けることで、言語化できない何か「中国的」なるものに肉薄しようとしているのではないかということ。だからこそ、文学者の発言部分が印象的に浮かび上がってくる。
映画の終盤になり、1人の作家が語る。「自分にとって、海は黄色いものだった。黄河から流れ込む黄色い水で黄色く染まっているのが海だったのだ。しかし、ある時、青い海を見たいと思い、自分は海に向かって泳ぎだした。どこまでも黄色い海が続くと思われたけれど、泳ぎ続けているといつしか海は青く変わっていた。やれば海の色だって変えられるのだ。。。」。中国という長い歴史を持つ文明圏が、西欧文明という異質の他者と接触し、近代的自己と近代文学を導入した。75年かけてそれを中国のものとして受け入れるに至る苦難の道のり。それは文学の苦難であり、個人の苦難であり、そして近代的自己の苦難の歴史でもある。そのプロセスは、経済的繁栄を遂げ、インターネットを通じて世界とつながることができるようになった現代中国においてもまだ続いているプロセスなのかもしれない。
ジャ・ジャンクー自身は、決してあからさまに表現するようなバカな真似はしないけれど、言うまでもなく、この近代的自己には、自由、自立、平等、友愛などの価値も付随しているのである。そのことは、この映画で使われている音楽にも密かなメッセージとして挿入されている。この映画で使われている音楽は、中国の伝統的な歌謡以外は、ほとんどソビエト時代の巨匠ドミートリィ・ショスタコーヴィッチの作品群。クラシック好きであれば、ショスタコーヴィッチの作品の多くが、ソビエト共産党独裁政権に迎合しつつも、その中にスターリン時代に粛正された多くの芸術家への追悼として作曲されたことは周知の事実である。ジャ・ジャンクーの中国に対する愛情と批判的視点を改めて感じさせる名作。