フランコ・ゼフィレッリ監督「ロミオとジュリエット」
昨年、亡くなったイタリア映画の巨匠フランコ・ゼフィレッリ監督。その追悼上映としてBSシネマで放映された「ロミオとジュリエット」をようやく観る。1968年の作品。イギリス、イタリア、アメリカの共同プロデュースで、配給はパラマウント。セリフは、シェイクスピア戯曲に忠実な英語である。当時16歳のオリビア・ハッセーの美しさと初々しい演技、ニーノ・ロータの主題曲で話題となった。
僕は、どうも50年代から60年代の文芸大作が弱い。多分、映画を真剣に見はじめたが80年代で、ニューシネマやヌーベルバーグ、さらにその後の73年の世代の監督達の作品から見はじめたからだと思う。ひとつ上の世代が愛した「芸術」などにつき合っている暇はないという、若者に特有の不遜さがあった。だから、この「ロミオとジュリエット」も、オリヴィア・ハッセーの美しさは十分に理解していたし(「復活の日」の彼女はやはり美しかった!)、ニーノ・ロータの主題曲も耳になじんでいたけれど、名画座での上映につい行きそびれてしまっていた。
で、今回、初めて見て、ゼフィレッリ監督の手腕にただただ圧倒された。やはりオペラの国、イタリアの監督は演出力が尋常ではない。冒頭、対立するキャビレット家とモンタギュー家の若者達が市場で出くわし、そのまま乱闘になる場面。シェイクスピアの英語の舞台そのままのような典雅な英語を使いながら、イタリア・ヴェローナの中世の市場で若者達が剣を抜き、市場は大混乱となる。キャビレット家の赤を基調とした衣装と、モンタギュー家の紺や緑を基調とした衣装が対比され、混乱の中で二つの色彩が混交する。舞台のような誇張とした台詞回しとアクションが繰りひろげられるのに、映画のタッチはまるでドキュメンタリーのようなリアリティを持っている。逃げ惑う群衆の処理も的確である。ゼフィレッリ監督はオペラや舞台の演出をきちんと理解した上で、それをどう映像処理するかを徹底的に考え抜いた人なのだろう。思わず冒頭から引き込まれる。
そして、ロミオとジュリエットが初めて舞踏会で出会う場面。舞踏会の群舞も素晴らしい。カメラ・ワークに頼らず、固定ショットで群舞の躍動感を映し出す。歴史的な考証を経ているかどうかわからないけれど、その素朴だけれど喜びに満ちた所作を観ていると、シェイクスピアの時代には人びとはこのように踊っていたのだろうなと納得してしまう。
その舞踏会の中で、二人は出会う。テーマ曲を歌手が歌い始め、その周りを人が取り囲んで壁のようになる。その壁の外縁から歌手をのぞきこむジュリエット。そのジュリエットを見つけ出し、ゆっくりと外縁を半周してジュリエットに近づき、壁の奥からそっとジュリエットの手を握り、ささやきかけるハムレット。ジュリエットは驚いて手を振り払おうとするが、壁の奥で手を握りながらささやきかけるハムレットを目にして一目で恋に落ちる。手と手の触れあいから、会話が始まり、そのまま壁の奥でキスするまでのショットの繊細さに息をのむ。テーマ曲が二人の気持ちの高まりをさらに強めていく。今どきのこれ見よがしに感動をあおる耳障りな音楽ではなく、あくまでも画面に推移する若い二人の身振りや会話に慎ましく寄り添いながら、二人の感情の高揚を表現する音楽。贅沢な映画だと思う。
ロミオとジュリエットという、結論まで含めて誰でもが知っている物語を映像化する。しかも、翻案やパロディや舞台の再現ではない形で。セリフはできるだけ原作に忠実に。こういう条件は、実はとても難しいと思う。セリフに忠実であればあるほど、映画は限りなく舞台に近づいていくからだ。これをどうするか。ゼフィレッリ監督が提示した回答は、まず屋外でドキュメンタリーのようなタッチの映像を見せることで舞台のような台詞回しの違和感を払拭し、その後は屋内であっても屋外であっても感情の強度と演技の劇的な集中力を途絶えさせることなく物語を進行させるというものだった。
その進行を支えるのが、決して停滞しないアクションの連鎖。例えば、ロミオとジュリエットがロレンス司祭の仲介で密かに婚姻する場面。ジュリエットが教会に到着するやいなや二人は駆け寄って抱擁し、あわてて二人の間にロレンス司祭が割って入ると、司祭を間に挟んでまるで子供の鬼ごっこのように隙を見て手を握りあい、互いの唇に触れようとする。この一連のアクションの連鎖を観れば、ゼフィレッリ監督の演出意図がわかると思う。こうした動きをつないでいくことで、映画は停滞せずにこの世界一有名な物語を進めていくのである。
それにしても、この映画でのロミオとジュリエットの手の動きはなんと魅力的なんだろう。舞踏会で、ジュリエットが群舞の中で踊る場面。そこでも、ジュリエットは、他のダンサーと共に不思議な手の動きを見せる。それは、先ほど説明した二人の出会いの場面での手の握り合いへと接続していく。さらに、あのもっとも有名なテラスの場面。そこで一夜、愛を語り合う二人は、抱擁やキス以上に手を合わせることで愛を確かめ合う。だから、ロミオが別れを惜しみつつジュリエットの元を立ち去る時にも、最後に映し出されるのは二人の絡み合った手がほどけ、ロミオの手がゆっくりと画面外に出ていく場面で終わるのだ。ゼフィレッリ監督は、手だけが映し出されたカットにかなりのこだわりを見せる。
映画の最後、墓所でジュリエットが仮死状態から甦る場面でも、やはり手が重要な役割を果たす。カメラはまずジュリエットの手だけを映し出し、それがゆっくりと動き出すのを捉える。その手は、まるで主人を探すかのように、ジュリエットの身体をゆっくりと探っていき、最後にジュリエットの眠っている顔にたどり着く。そこでようやくジュリエットは目を開くのだ。このジュリエットの仮死状態を解き放つ手は、本当にジュリエットの手だろうか。ゼフィレッリ監督は、まるでこの手がジュリエットの意思と無関係に動いているかのように演出している。むしろ、その手は、前の場面で横たわるジュリエットの身体を愛おしく撫でた後に毒をあおったロミオの手の動きをなぞり、彼の意思がそのまま乗り移ったかのようだ。
フレームによって外部から切り取られて独立した動きを見せる手の映像。愛を確かめ合うためにあわせられた手と、愛の永続を願って離れるのを惜しむ二つの手。こうした手の映像の連鎖が、「ロミオとジュリエット」と言う物語の映画的細部を活性化させ、物語にも演技にも還元されない映画固有の魅力を創り出している。映画史に残る名作だと実感する。
そういえば、ゼフィレッリ監督の作品は今回が初めてである。機会があれば、名作の誉れ高い「ブラザー・サン シスター・ムーン」や「チャンプ」、あるいは90年代の「ジェイン・エア」や「ムッソリーニとお茶を」を観てみよう。