宮崎大祐監督「VIDEOPHOBIA」

映画の日なので、せっかくだから映画でも見に行こうと思い立ち、宮崎大祐監督の「VIDEOPHOBIA」を観に行く。理由は「オリヴィエ・アサイヤスが絶賛した」という謳い文句に惹かれたから。とりあえず、オフィシャルサイトから彼のコメントを引用しておこう。

見事な作品だ。現実的であると同時に、完璧に夢幻的だ。

主演の女優は非常に強い映像的存在感を持っていて、素晴らしい。彼女はとても身体的で、自然で、それでいて神秘的だ。

そしてこの映画自体も同様の性質を持っていると言える。シンプルで、エレガントで、明晰で、反復の中に日常生活の神秘とも言える何かを捉えている。

主演の彼女は他の誰かになることでその秘密の探求を遂行するのだ。

オリヴィエ・アサイヤス(映画監督)コメント

こう書かれれると、映画好きなら気になるでしょう。Twitterの映画関係者のツイートも概ね好意的だった。ということで、ミーハーにも見に行った次第。

物語は、大阪・鶴橋界隈のコリアン・タウンに住む朴愛をめぐって展開する.彼女は、風俗系の店の宣伝のため?に着ぐるみのアルバイトをしながら、夜は演技ワークショップに通うという生活を送っている。どうやらかつては東京で女優修業をしていたようだ。ある日、彼女はクラブで出会った男と一晩かぎりの関係を持つ。数日後、彼女はその夜の動画がネット上に流出していることに気づく。すぐに彼女は男の部屋を訪れるが、その部屋はインドネシア企業が運営している民泊用の部屋だった。彼女は、自分の映像がネット上で拡散していくのを前に徐々に精神的に追い詰められていく。。。。

とても現代的な設定だけど、スタイルは旧い。60〜70年代の白黒インディペンデント映画のタッチ。主人公が女優を志しているという点も割合によくあるパターン。愛役の廣田朋菜はちょっと虚無的な表情や動きで存在感があるけれど、他の出演者達が弱い。でも、それ以上に演出の意図がよく分からない。精神的に追い詰められている感覚が伝わってこないし、ネット上に彼女の映像を拡散させることの悪意も焦点を結ばない。断片的なエピソードが積み重ねられていくだけだ。心象風景的に映し出される工場群や建物、あるいはコリアン・タウンという日本のエスニック・マイノリティの生活ぶりも、どこか説明的だ。断片的なものであってもそこに意図があれば良いけれど、この映画では、何か説明の域を出ていない印象を持ってしまう。おかげで、せっかくの設定が拡散してしまう。

とは言え、細部では面白い部分もある。特に良いのが、着ぐるみで客引きをする場面。かわいいぬいぐるみを被って客引きをする姿が彼女の日常の虚無感を浮かび上がらせる。そして、精神的に追い詰められた彼女が被害者向けの心理ワークショップを受ける場面も興味深い。参加者1人1人が、自分が受けた被害を告白し、それを皆で聴くというスタイル。1人が話し終える度に、全参加者は彼/彼女の告白の勇気をたたえ、あなたは悪くないと口を揃える。一見すると癒やしの空間のように見えて、新興宗教のような気持ち悪さを醸し出していた。それから、夜に愛が1人窓際に佇んでタバコを吸う場面も印象的である。彼女が2階の窓から見下ろす通りすがりの女も何度か映し出されるが、謎めいていて映画の迷宮感を高める。ここは面白いかもしれない。ただ、これらの魅力的な細部は断片的で、全体の中にうまく収まっていない印象を受ける。

ということで、僕はあまり好きになれなかった。なんでいまさらこんな半世紀前のATG映画やPFF出品作品のようなことをやっているのだ!というのが正直なところ。まあ、そんな半世紀前の作品を観ていない若い世代にしてみると、こういうのが新しいのかもしれないけれど。。。そういえば、映画中に当時の最新鋭の8ミリカメラが登場していたけど、もしかしたら宮崎監督はそういう8㎜カメラによる自主上映映画に思い入れがあるのかもしれない。

ただし、この映画の最後のカットは興味深い。ネタバレになるのであまり詳しいことは書けないけれど、映画の最後のカットは、愛の背中に男の腕がまとわりつくところで唐突に終わる。その腕だけのカットは、その前に出てきたいくつかのカットと反響しつつ、観客が理解していた物語とは別の物語の可能性を示唆する点で衝撃力を持っている。これは面白いかもしれない。ただ、演出が、その最後のカットの力を十分に伝え切れていないのが残念。悪くない映画だとは思うけれど、それほど絶賛する映画でもないと思う。アサイヤス監督、コリアン・タウンや岸和田だんじり祭などのオリエンタリズムに惑わされてしまったのだろうか。。。

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