ロバート・ゼメキス監督「魔女がいっぱい」

ロバート・ゼメキス監督の新作「魔女がいっぱい」を見に行く。ロアルド・ダール原作童話の映画化作品。主演はアン・ハサウェイ。脚本にギレルモ・デル・トロが入っており、製作には、ギレルモ・デル・トロにアルフォンソ・キュアロンが参加している。これだけのメンバーが揃っていて面白くないわけがない。

物語の主人公は黒人の子供。彼は、交通事故で両親を亡くし、祖母の元に引き取られる。最初は食欲もなく何にも関心を持つことができなかった彼は、祖母の努力の甲斐あってなんとか回復に向かうが、そこに不吉な魔女が登場し、事態は思わぬ方向に展開していく。。。。

ゼメキス監督の前作「マーウェン」はある事件のトラウマから精神に不調をきたし、人形達の空想世界に逃げ込んだ白人男性の回復の物語だった。「マーウェン」では、空想世界に逃げ込んだ白人の中年男性が、生きている女性の導きによって現実世界に回帰した。しかし、「魔女がいっぱい」は、やはりトラウマによってお伽話の世界に入り込んだ黒人の男の子が回復する物語でありながら、結末は異なる。この男の子は、お伽話の世界を自分の人生として引き受け、お伽話の世界にとどまりながら、積極的に現実世界に関わっていこうとするのだ。だから、マーウェンよりも「魔女がいっぱい」の方が、よりポジティブなエネルギーが感じられる。このため、ゼメキス監督の魅力あふれる素敵な作品に仕上がっている。

何よりもすごいのが、違和感のない特撮と、これを説得力あるものにするカメラワーク。魔女の魔法でネズミに変身させられた主人公たちが、祖母や魔女たちとからむシーンに全く違和感がない。思い起こせば、ゼメキス監督は「ロジャー・ラビット」以来、一貫して特撮の主人公と現実の俳優がいかに違和感なく一つの画面上で共存できるかを追求してきた。「ベオウルフ/呪われし勇者」のように全編が3Dアニメで撮影された作品でも根底にある主題は同じである。画面上で2Dアニメも3Dアニメもリアルな俳優も、全てが同等の価値を持って違和感なく共存すること。ゼメキス監督は、そこに映画の可能性を見いだす。なぜなら、それによって一つの画面において様々なアクションが可能になるからである。

ゼメキス監督は、映画=アクションという信念を持っている。そこでは全てのアクションが可能にならなければならない。自分の描きたいビジョンが俳優だけでは実現できなければ、2Dアニメであろうが3Dアニメであろうがコマ撮りのフィギュアであろうが使えるものは何でも使う。それが映画の可能性を広げることにつながるのだとゼメキス監督は考えているのだろう。その回答が「魔女がいっぱい」に提示されている。ここでは、すべてが等価なのだ。3本指で異様な足の魔女も、魔法によって変身させられた3Dアニメのネズミも、普通の俳優たちも、すべてが一つの画面の中に違和感なく共存している。ここにゼメキス監督の映画の喜びがある。

これをより説得力あるものにしているのが、縦横無尽のカメラワークである。今回は、ネズミに変身させられた主人公の視点を中心にカメラが動き回る。必然的に、カメラアングルは通常の映画の視点とは異なり、床面すれすれであったり、棚の上から見下ろしたりするアングルが中心となる。さらに、人や魔女との会話では切り返しに高低差が生まれる。そのカメラ・アングルがとても斬新である。そこがゼメキス監督のすごいところだと思う。どんなにすごいクリーチャーを特撮で造型しても、カメラ・アングルが普通の映画と変わらなければ、映画は革新されない。ゼメキス監督は、映画的表現の革新について、極めて自覚的だ。

かくして、「魔女がいっぱい」は大人も子供も楽しめる一級のエンタテイメントに仕上がっている。子供にとっても、きっとこの映画は楽しめるものになるだろう。もしかしたら、一定年齢以下の子供たちにとってはトラウマ的な映画になるかもしれない。なにしろ、数十年前に出会った魔女がいまだに自分のことを覚えていたり、美しい女性が手袋を取れば3本指でしかもいきなり口が裂けてしまったりするのだ。しかし、そういう恐怖経験は、多分、大人になるために必要なプロセスだと思う。日常生活を超えた理解不能なものの存在を皮膚感覚として記憶しておくこと。それが童話の教育的機能だとすれば、「魔女がいっぱい」はまさにうってつけの教材だと言えるだろう。

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