デヴィッド・ゴードン・グリーン監督「ハロウィン」
iTunesで新作の「ハロウィン」のレンタル料が100円になっていたのでつい貧乏根性を出して観てしまう。やっぱり100円ってすごいよね。安すぎる!
僕はジョン・カーペンターのファンだけど、なぜか「ハロウィン」シリーズは観ていない。単に機会がなかっただけだけど、2018年版の「ハロウィン」は記念すべきジョン・カーペンター監督の一作目「ハロウィン」の40年後を描いた直接の続編と言うことなので、オリジナルを観ないでいきなり続編の方を観ることにした。
この「ハロウィン」シリーズは、第一作からシリーズで8本作られていて、今回の作品が9作目。ブギーマンことマイケル・マイヤーズと、その姉でシリーズを通じて自身とその家族をマイケルに狙われ続けるローリー・ストロードの関わりが軸となり、これに精神科医のルーミス医師や、ローリーの息子のジョン、娘のジェイミーなどが絡む長い物語である。物語の発端は、6歳のマイケルが、ナイフを持って長女に襲いかかり殺してしまう事件である。マイケルは、精神病院に入れられて治療を受ける。マイケルは、常人を超えた高度の知能を持っているが、ひとことも語らない。この事件から十数年が経過したあるハロウィンの夜、マイケルは精神病院を脱走し、オハイオ州の小さな町に現れて無差別殺人を開始する。彼が執拗に追いかける女子高生のローリーは、実はマイケル一家の次女でマイケルにとっては残された唯一の姉だった。。。
今回の作品は、第一作の直接の続編ということで、残りの7作の内容は無視して、第一作からいきなり40年後に飛ぶ。一作目の事件の後、再び精神病院に入れられていたマイケルが、他の病院に移送される途中で脱走し、ハロウィンの夜にローリーを殺しに町に戻ってくるというのが基本的なストーリーである。ローリーは、事件から40年間、一度もマイケルのことを忘れず、彼が再び襲ってくることを予期して着々と準備を重ねていた。マイケルが脱走したというニュースを聞き、ローリーは、娘のカレンと孫娘のアリソンを守るため、自宅に立て籠もる。。。
製作総指揮にジョン・カーペンターが入ったことで、この作品は第一作の雰囲気を維持した作品に仕上がっている。暗い闇の中、凶器を持ったマイケルが殺戮を繰り返す。撃たれても、刺されても、車にはねられても死なず、一言も発しないままナイフや金槌を振りかざすマイケルは確かに無気味である。そして、一作目同様に、殺害シーンを直接見せず、音だけで提示するところにカーペンターのこだわりを感じる。もともと、カーペンターが一作目を撮った時はヒッチコックの「サイコ」にオマージュを捧げるためだった。わざわざローリー役に、サイコで殺されるジャネット・リーの娘のジェイリー・リー・カーティスを起用したところでもカーペンター監督の意図は明確である。だから、「ハロウィン」では、当時流行していたスプラッタ・ホラーのこれ見よがしの殺戮場面は登場しない。映画は、見せるだけでなく見せないことによっても物語を語ることが出来るのだ。これをカーペンター監督は熟知している。
それにしてもこれは不思議な映画である。色々な人が巻き添えになるけれど、結局、物語は壮大な兄弟・姉妹げんかなのだ。あるいは、一家族における女系と男系の戦いと言っても良いかもしれない。マイケルは年老いた男である。これに対し、ローリーは不仲になっているとは言え、娘のカレン、孫娘のアリソンと交流がある。独り者のマイケルに対して、一家の女たちが一致団結して戦う。精神科医が映画中でつぶやくように、「加害者と被害者は、それぞれのトラウマを背負うことでお互いを求め合う」のだが、この意味で、マイケルとローリーは共依存の関係にあるのかもしれない。
実際、ローリーは物語が進んでいくにつれて、徐々にマイケルの行為を模倣しはじめる。彼女は、ライフルを奪われればナイフを振りかざしてマイケルに立ち向かい、窓から落下して倒れてもふと目を離した隙に姿を消してしまう。そして、気がついたらマイケルと同じように音もなく背後に忍び寄るという芸当までやってのけるのだ。
共依存は、マイケルに殺される男たちの選択にも現れている。マイケルは、一般家庭の女性たちを無差別に殺していく。しかし、男については、警官や精神科医など自分を拘束しようとする者たちか、あるいは自身が次の殺人を行うために必要なものを手に入れる必要がある時にしか手を出さない。この点で、マイケルの行動は一貫している。快楽殺人のために女を殺し、この快楽を実現するために必要な限りで男たちも殺す。しかし、例外がある。マイケルは、自分の家系につながる女たちに関わる男は自発的に殺すのだ。あるいは、より正確に言うと、孫娘のアリソンが内心嫌っている男たちがターゲットにされる。アリソンが生まれたのはマイケルが精神病院に収容された後だから二人の間には全く交流がないにもかかわらず、マイケルはまるでアリソンの無意識の欲望を代わりに実現してやろうとするかのように彼女に関わる男たちを殺していく。
無言で無差別殺人を重ねていくマイケルは無気味だが、同時にそのマイケルに対して様々な武器を駆使して戦うローリーたちもまた、根本的なところでは無気味である。カレンも、土壇場で母のローリーと共闘する。アリソンは普通の女子高生に見えるが、映画の最後のカットに映し出される彼女の手にはしっかりとナイフが握られている。彼女たちを乗せて深夜の闇を疾走する車の運転手は決して映されない。このことがさらにアリソンのナイフの不穏さを高める。この象徴的な最後のカットが、この一族の宿命を物語っているようにも見える。
ただ、欲を言うと、せっかくの40年ぶりの続編だし、恐怖だけでなく、ローリーの心理やマイケルという存在の無気味さについてもう少し深めてほしかった。映画の途中で、マイケルの主観ショットがしばらく続く場面があるんだけど、例えば、そこで彼が何を見、何に反応したのか(あるいは反応しなかったのか)を提示するだけで、マイケルという一言も発せずに殺戮を繰り返す無差別殺人者の内面に迫ることが出来るはずだと思う。なぜ、彼は医師と看護婦に扮したカップルは殺さなかったのか。なぜ、彼は侵入した家で母親を殺しておきながら泣いている赤ん坊には手を出さなかったのか・・・。しかし、これらの場面では、ただ彼の行動が映し出されるだけだ。そこに何かマイケルという存在の鍵となる符牒のようなものが提示されていれば、もっとこの映画は深まるような気がする。
これは、ブギーマンのマスクについても言える。なぜマイケルはボロボロになったブギーマンのマスクにこだわるのか。あるいは、ブギーマンのマスクを、束の間、身につけた精神科医がふと殺人者の快楽について語りはじめるのはなぜか。この場面は、もしかしたらマスク自身に何か秘められた力があるのではないかと一瞬思わせるけれど、それ以上、このテーマは深められない。しかし、映画の中でローリーが語るように、「ブギーマンは存在する」のだ。ローリーにとって、マイケルは自分の弟である以上に、ハロウィンの夜にクローゼットの闇から襲いかかってくるブギーマンの化身である。それは、どれだけ傷を負っても復活するマイケルの超人性が証明している。では、マイケルにこの超人的な力を発揮させ、異界の者に変容させるマスクとは何か。ここでも映画は多くを語らない。
たぶん、こと「ハロウィン」シリーズに関しては、こういう風に描かれていないことを詮索するのは野暮なのかもしれない。オリジナル作品でカーペンターが描きたかったのは、全く内面を持たず、何の説明もないまま、ハロウィンの夜に大量殺戮をはじめる無差別殺人者だろう。動機付けもなければ、超常現象に関する一切の背景もなく、ただ殺しを続ける存在としてのマイケル。それは、純粋な悪の顕現と言っても良い。この世界からは全く理解の可能性を欠いた、ただ一方的に襲ってくる何者かの出現。それは、他のカーペンター作品と同様に、この世界のあり方を根本から覆そうとするなにかである。そういう意味では、何の説明も提示されないところが、このシリーズの最大の魅力なのだ。
ちなみに、新型コロナウィルスの感染拡大で延期になったけれど、2021年10月にはさらに続編に当たる「ハロウィン・キルズ」が公開されるようです。もしかして、ここで書き留めたことのいくつかは、次回作でさらに深められるかもしれませんね。期待しておきましょう。