サム・ペキンパー監督「昼下がりの決闘」

BSシネマでサム・ペキンパー監督の「昼下がりの決斗」を観る。1962年の作品。主演は、ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー、マリエット・ハートレイなど。サム・ペキンパー監督の2作目の作品であり、この作品で彼は監督して認められた。同時に、この作品は、ランドルフ・スコットの引退作でもある。そう、バッド・ベティカー監督のあの伝説的なラナウン・サイクルのシリーズに主演したランドルフ・スコットは、この作品で長いキャリアの最後を飾ったのだ。

たぶん、ランドルフ・スコットの起用にはサム・ペキンパー監督の西部劇への想いも込められている。ドン・シーゲルのもとに弟子入りし、テレビ西部劇シリーズのディレクターから映画監督に転身したサム・ペキンパー監督は、数多くの西部劇を監督した。「ワイルドバンチ」、「砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード」、「ガルシアの首」などの傑作を残したこの監督の作品には、西部劇への愛情があふれている。ただ、彼が描く西部劇にはどこか失われたものへの哀悼の念も感じられる。壮絶なバイオレンスを描きながらも懐かしさを感じさせるその映画には、もはやジョン・フォード監督やハワード・ホークス監督が描いたような古典的な西部劇は不可能だという断念がある。だからこそ、旧き良き西部劇の世界を体現したランドルフ・スコットの引退作を彼自身で監督したかったのだろう。

実際、「昼下がりの決斗」には、サム・ペキンパー監督が、その後、何度も描くことになる西部劇の要素が詰まっている。蓮實重彦先生が指摘した「契約書による不自由」という主題は言うまでもない。そもそも、この映画は、年老いた元保安官のスティーブ・ジャッドが契約書に従って山の金鉱から金を持ち帰ろうとする物語を基軸とする。

映画の一つの焦点は、ジャッドが契約書を履行する/できるかどうかにある。元保安官のジャッドには、契約を破棄して金を持ち逃げするという選択肢はあり得ない。しかし、長年の友人でジャッドと行動を共にすることになったギル・ウェストラム(=ランドルフ・スコット)は、命をかけて法と秩序を守ってきた男たちが年老いて報われることなく死んでいくエピソードを繰り返しジャッドに語りかけて契約の破棄をそそのかす。表面には出さないが、ジャッドの心は揺れる。ジャッドが契約を守るかどうかが、この映画では一つのサスペンスを構成する。

もう一つの焦点は、ジャッド達に同行して金鉱の男と結婚しようとするエルザ(=マリエット・ハートレイ)を巡る物語である。彼女は、ビリーと言う男と結婚するために厳格な父の元を飛び出して金鉱までやってくる。しかし、ビリーは荒くれた男で、しかも5人兄弟の一家だった。彼女は結婚式を挙げるものの、ビリーの兄弟達に襲われそうになり、逃げ出すことを決意する。彼女の脱出の成否を握るのは結婚証明書である。ここでも、物語の焦点は、証明書の法的有効性に置かれる。

さらに興味深いのは、映画の全編に聖書が引用される点。ジャッドも、ギルも、エルザの父親も、会話の節々に聖書の言葉を挟み込む。もちろん、聖書はキリスト教において神との契約を表す聖なる言葉である。彼らは、聖書の言葉を引用することで、自分たちの行いが神との契約から外れていないかどうかを検証し合っているようだ。ここでもまた、契約の主題が現れる。

そして、極めつけは、エルザの母の墓碑銘に刻まれた言葉である。その墓碑銘には、「結婚という聖なる契約から逃亡した女、ここに眠る」と書かれているのだ。エルザの母親が、どのような経緯で亡くなったのかは明らかにされないが、毎朝、彼女の墓に詣でて祈り続け、エルザに対しては厳格すぎるほどに男達を寄せ付けようとしない父親の行動を見ていると、二人の間に何かあった可能性は充分にある。ここでもまた、結婚という契約を守るかどうかが問われている。

こうして見ていくと、「昼下がりの決斗」という映画は、法や契約を守るかどうかに強いこだわりを持っている。映画の基調をなすのは、まさに蓮実先生が指摘したように「契約による不自由」である。そして、この法や契約を誰かが破ろうとする時にドラマが立ち上がる。そこにペキンパー監督の独特の演出がある。

もちろん、これだけが「昼下がりの決斗」の魅力ではない。例えば、風呂に入ること。他のペキンパー監督作品同様に、男達は下着のままで水風呂に入れられるだろう。ペキンパー監督は、野外で風呂に入る男というシチュエーションを偏愛する。「ケーブル・ホーグのバラード」を観たことがある人間なら、あああれかと思い当たるだろう。

そして水。ペキンパー監督作品の登場人物が休息し、一時の憩いを得ることが出来る場所は、常に水辺である。豊かな水をたたえた場所の側ではじめて、ペキンパー的人物達は心を許し、焚火の周りに集って語りはじめる。これもまた、ペキンパー監督が偏愛する光景の一つである。

この映画は、最後にジャッドとギルが、老いた身体を鞭打ってビリー兄弟達と決闘する場面で幕を閉じる。身を隠す場所がない広場で、多勢に無勢の状況であるにもかかわらず相手を倒すために進み続ける二人。これまでの西部劇で様式として確立されてきた目にもとまらぬ早撃ちや、物陰に隠れて相手を出し抜くという小細工は一切ない。ただ距離を詰めながら撃ち合い、撃たれて倒れても相手を倒すまで反撃し続ける。壮絶な殺し合いである。その生々しさがペキンパー監督の西部劇の特徴だとしたら、彼は西部劇というジャンルに強いノスタルジアを感じ、失われゆく世界に哀悼の意を表しながら、同時に、そのようなリアリティを導入することで、このジャンルの終焉に決定的な一撃を加えていたのかもしれない。

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