相米慎二監督「台風クラブ」

相米慎二監督特集。没後20年の回顧上映で全13作品を上映する。まずは第1日目で「台風クラブ」を観る。1985年、ディレクターズ・カンパニー製作作品。出演は、三上祐一、工藤夕黄、大西結花、三浦友和、尾美としのりなど。

中学三年生の少年少女の木曜日から月曜日の朝までを描いた作品。タイトル通り、週末に台風が直撃する。学校に残された男女6人と、家出した理恵(=工藤夕貴)、彼らの数学教師の梅宮(=三浦友和)などを巡って物語は展開していく。

この映画については、ストーリーを語っても無意味だ。大人でも子供でもないまさに境界の時を生きる思春期の男女の鬱屈と衝動をそのまま映画にしてしまった作品。語り出せば、すべての場面について語ってしまうことになるけれど、多分、どんなに言葉を尽くしても、この映画について語り尽くすことはできない。圧倒的な暴風雨。その中を下着姿で踊り狂う男女。あるいは、好きな女の子に好きだと言えずにただ教室の扉を蹴り続けることしかできない男の子。一つ一つの場面の強度が半端ではなく、ただ語る言葉を失って呆然と映像に身を浸すしかない映画。そんな映画がこの世の中に存在することを僕は若い時に体験してしまった。何度観ても、感動し、発見がある作品。

最初に見た時は、そのやり場のない少年少女のエモーションと、台風がもたらす過剰な暴風雨にただ圧倒された。そして、優等生三上の死。かれは、「個は種に優越するか」という哲学的問いに捕らわれ、常に冷静に他の級友たちを見つめている。級友たちが引き起こす騒動からも距離を置いて事態を収拾しようとする。そんな彼が、仲間達と共に夜の教室に閉じ込められ、狂騒の一夜を過ごした後に、「死は生に先行する。厳粛な生を生きるためには厳粛な死を経験しなければならない。おまえ達が厳粛な生を生きられるように、僕は厳粛な死を見せてやる」と言って自殺する。しかし、それは大江健三郎の物語の登場人物のように滑稽な死でしかない。そんな語りが映画で可能であることは本当に衝撃だった。

今回、久し振りに見直してみて、幾つか気づいたこと。一つは、折り紙の鶴。三上達が台風の中、一夜を過ごす教室には、なぜか大量の折り鶴がある。三上は、天井から折り鶴が大量に下がっている教室に椅子と机で祭壇のようなオブジェを作り、そこに上がって自殺する。しかしなぜ折り鶴なのだろう?この折り鶴は、たとえば2年前に相米監督が製作した「ションベン・ライダー」の結末で藤竜也や永瀬正敏が立て籠もった幼稚園の天井から下がっている巨大な折り鶴と何か関係があるのだろうか。あるいは、台風クラブと同じ年に撮影した「ラブホテル」で、主人公の村木が運転するタクシーのウィンドウにかけられた折り鶴とも共鳴し合っているのだろうか。。。

あるいは、歌。学校に閉じ込められた三上達が、衝動的にはじめたストリップ・ショーで歌いはじめ、やがて全員の合唱となる。そして、台風の目に入ったために一瞬、暴風雨が止んだ戸外へと彼らは飛び出すのだが、なぜか三上だけが音程が狂っている。やがて再び雨が降り始め、彼らは体育館に戻る。同じ頃、家出して暴風雨の夜の東京を彷徨っている理恵は、商店街で不思議な二人組に出会う。夜の嵐の中、異様な風体でオカリナを吹き続ける二人。彼らが演奏しているのは、なぜか三上達が歌っていた歌と同じだ。理恵は、二人に「良い曲ね、私にも吹かせて」と頼むが、二人は「オカリナは朝に吹くものだ」と言って拒絶する。

この一瞬、挿入される非現実的な場面は何を意味するのだろうか。三上と理恵は恋人同士で、お互いに相手のことを「最近、変だよね」と言い合い、ふとした行き違いから理恵は家出することになった。はるかな距離を隔てて、なぜか同じ曲を耳にし、一人は仲間達の合唱にどうしても合わせることができず調子外れの歌をがなり立て、もう一人は仲間達から遙か離れた場所で異形の者たちにその曲の演奏を願うが拒否される。

そこにもう一人、三上達が救援を求めて電話する梅宮先生を置いてみよう。電話を取った時の彼は、これまで引き延ばしにしてきた結婚を遂に承諾し、相手の女性の母親と叔父と4人で宴会の真っ最中だった。自宅のアパートの狭い一室の中で、梅宮はカラオケを歌おうとするが、何か憑かれたように部屋の窓を開け、台風の暴風雨が吹き込んでくるのも気にせずにベランダに出てずぶ濡れになっていた。そして梅宮は、電話で三上に「おまえも15年後にはこうなるんだ」と冷たく言い放つ。その時、結婚相手の女性とその母は二人でカラオケでデュエットしている。梅宮もまた共に歌うことから疎外されている。

台風クラブでは、少年少女達がそれぞれに鬱屈した想いを抱え込み、そのはけ口を見いだせないままに互いに傷つけ合い、行き違う。しかし、そうした葛藤は、圧倒的な暴風雨にさらされるなかで解消され、最終的には共に同じ歌を歌うことで和解に至る。では、共に歌うことを拒否された者たちには何が待っているのだろうか。

三上は、大人になることを拒否して自殺する。でもその死は彼の意図に反して滑稽なものでしかない。梅宮先生はどうなったのだろうか。映画では語られていないが、彼が結婚を決めた相手の女性の叔父が諸肌を脱いで見せた入れ墨と、彼女が100万円を他の男に貢いだというエピソードから、もしかしたらその結婚は禍々しいものになるかもしれない。

では、理恵は?理恵は、三上の自殺のことも知らずに、月曜日の朝に無事、帰還する。台風一過の爽やかな朝の光の中、家出した時と同じ制服姿で駅に降り立った理恵は、そのまま学校に直行し、途中で同級生の山田と出会い、少し大きくなったねと軽口を叩きながら学校に到着し、「きれい、金閣寺みたい」と叫んで、巨大な水たまりが朝の光を反射させている校庭を進んでいく。例によって、相米監督は彼女らを水たまりの中に落ち込ませるものの、その場面は、台風一過のさわやかなエンディングのように見える。しかし、理恵が家出したのは、土曜日である。彼女は、日曜日に何をしていたのだろうか?映画では語られていないが、おそらくは土曜日に原宿で知り合った大学生の小林(=尾美としのり)の部屋に泊まり、日曜日は二人でゆっくり過ごしたのだろう。とすれば、彼女はこの台風騒動の中で、子供から大人への決定的な一歩を踏み出したと考えるのが妥当だろう。

暴風雨での浄化と合唱によって再び中学三年生という共同体に帰還した他の同級生達と異なり、合唱から排除された三上は死を選び、理恵はこの共同体に帰還し得ない決定的な一歩を踏み出した。そして、おそらく梅宮先生も、これまでの平穏な中学教師というモラトリアムをもはや維持できない一線を越えたのだろう。

こうしてみると、台風クラブという映画は、思春期の少年少女の失われた共同体を描いた牧歌的な作品などではまったくなく、台風到来という非日常的な時空の中で共同体への帰還を拒まれた者たちの生き残りをかけた過酷な闘争の場を描いた作品なのかもしれない。かろうじて、この闘争の場を生き残り、イニシエーションを成功裏に終えることができたのは、映画の冒頭で深く水中に身を浸して仮死を経験済みの山田と、暴風雨の中、戸外にとどまり続けることで全身を水に浸した理恵だけである。工藤夕貴に、下着が透けて見えるほどずぶ濡れになりながら夜の東京を彷徨させた相米監督の意図は、このイニシエーションのためだったのかもしれない。そして、一度はベランダで暴風雨に身を浸そうとしながらも、結局、戸外に呼び戻された梅宮先生もまた、イニシエーションを果たせなかった存在なのだろう。

これ以外にも、語りたいことは多々ある。例えば、工藤夕貴が身にまとう真っ赤なドレス。そして、制服に着替えながらもはき続ける赤いハイヒール。相米監督における赤はどんな意味を担っているのだろうか。あるいは、床に寝そべって奇妙な動きを見せる肉体。三浦友和は、女の部屋で横たわり、足を女の身体に巻き付けて二人で絡み合う。工藤夕貴も、母親の布団に潜り込んで自慰にふける。布団を頭から被り、「お母さん」と呟きながら奇妙な動きを続ける布団の塊は、たとえば「ラブホテル」の冒頭で、ベッドの上で身体をくねらせる寺田農の動きなどと呼応しつつ、相米的としか言いようのない身体性を表現する。そして、突然の停電、窓の外に降りしきる雨、突然の乱入者などなど。。。多分、こうした細部は、他の相米作品や、同時代の映画と呼応しつつ、壮大な映画的宇宙の片鱗を垣間見せているはずなのだ。だから、僕らは、繰り返し、相米監督の作品に戻っていくのだろう。

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