相米慎二監督「ションベンライダー」

相米慎二監督特集で「ションベン・ライダー」を観る。1983年の作品。主演は河合美智子、永瀬正敏、藤竜也、原日出子など。撮影監督に田村正毅が入っている。

この作品は、公開当時から神話だった。押井守の「うる星やつら オンリー・ユー」との併映で公開されたため、当初の観客はむしろ押井ファンの方が多かったかもしれない。しかし、公開と同時に、映画好きの間であっという間にこの作品の話題が広がった。冒頭の圧倒的な長回し。貯木場での混沌とした追跡劇。誰が誰を追いかけているのかも分からない中、次々に人が水中に落下しては再び丸太に這い上がって追跡を続ける。あるいは廃船の船倉でのヤクザの権兵(=藤竜也)と子供たちのからみ。暗闇の中、甲板の隙間から漏れる美しい光の中で、半ば命への執着を捨ててしまったかのように見える権平の心の虚無が浮かび上がる。あるいは、権平の錯乱シーン。突然、何者かに脅かされたかのように室内で日本刀を振りかざして暴れはじめる権平。眺望の良い部屋の外には、狂ったように花火が炸裂する幻想的な場面である。あるいは、最後の対決の場面。幼稚園に立て込もった子供たちと権平に容赦なく大量の放水が行われ、室内に水が流れ込む・・・。

僕らは、憑かれたように「ションベン・ライダー」の各場面が持つ強度と魅力について語り、ろくに知りもしないくせに評論家の言葉を引いて「スタジオ・システムが崩壊した中で、ゼロからあらたな映画システムを立ち上げようとする」相米慎二の偉大さについて議論した。この映画は、それほどまでに衝撃的だった。その感動は、2年後に公開された「台風クラブ」でさらに深められるだろう。誰もが、相米慎二監督の次の作品を心待ちにし、次にどんなことがなされるのかを固唾のんで見守っていた。

それから四半世紀以上が過ぎた。相米慎二は既に亡くなり、日本映画の担い手も世代交代が続いている。しかし、今観ても、「ションベン・ライダー」はすごい。何度観ても、そこには新たに発見がある。むしろ、相米慎二監督のその後の作品を観たことによって、さらに理解が深まったという方が正確だろう。

例えば、水中に身を沈めること。ふだんから「ボクは男だ」と主張し、自分の女性性を否定しようとするブルース(=河合美智子)が、初潮を迎えて動揺する場面。彼女は、何も言わずに立ち上がると海中にどんどんと分け入り、首のあたりまで水に浸かる。その姿は、例えば「雪の断章 情熱」の斉藤由貴が、育ての親である雄一を男として意識した時に河に身を投じて泳ぎはじめる姿と重なるだろう。それはまた、「お引越し」で田畑智子が家出して夜の山中を彷徨し、湖に身を浸して「おめでとうございます」と叫ぶあの感動的な場面とも響き合う。相米映画においては、思春期の少女が大人の世界に足を踏み入れる手前で、逡巡と成長への期待との間で葛藤することが一つの大きなテーマとなる。その中で、相米的少女たちは、心の中に湧き上がる混乱した想いを鎮め、新たな一歩を踏み出すための浄化と通過のイニシエーションとして水の中に身を浸す。それは、原始キリスト教におけるバプテスマと同様の聖なる儀式である。

仮に近くに身を沈める海や湖がない場合はどうなるのか。あるいは、少女たちが、そもそも大人になることにためらいを感じている場合はどうなるのか。大人になることを拒否する少女たちには、相米的な暴風雨が襲うだろう。「翔んだカップル」の薬師丸ひろ子が、夜の大雨の中に駆け出す時、「台風クラブ」の工藤夕貴が台風の暴風雨の中、夜の東京の街を彷徨う時、彼女らはそれと意識することなく、通過儀礼に無理矢理参画させられている。

それだけではない。相米的な水の主題は、大人の女たちが過去の過ちを悔い、男との新たな関係を築こうとする時にも現れる。例えば、「魚影の群れ」では、二十年前に小さい娘を捨てて出奔した十朱幸代が、傘も差さずに豪雨の中を走ることで別れた男との束の間の愛を取り戻す。「ラブホテル」でも、過去のしがらみに捕らわれて男を愛することができない速水典子は浴槽に深く身を沈めることで男への愛を確信するだろう。相米映画において、女たちが水の中に身を沈めるのは、浄化と成長を促す特権的な行為なのだ。

「ションベン・ライダー」については、これ以外にも語りたいことはたくさんある。宴会場面での女体オブジェ(この場面は、「雪の断章 情熱」でも繰り返される)、観覧車内での踊り、フェイス・ペインティング、衣装の取り替え(それは、思春期の子供たちの性の同一性の揺らぎを表象すると同時に、相米映画における役割の取り替え可能性をも意味する)、天井からつるされた折り鶴、ぶら下げられること、上昇と下降、歌うこと、踊ること、越境すること(ブルースは、公衆便所の窓から脱出し、幼稚園の窓から屋内に侵入する。彼女は、性の境界を越境するだけでなく、物理的な境界も越境する特権的な存在なのだ)、仰向けの姿勢(最後に、権平が警官隊に取り押さえられ、仰向けの状態で担ぎ出される姿は、十字架から降ろされたキリストのようでもあり、あるいは「台風クラブ」の工藤夕貴や「翔んだカップル」の薬師丸ひろ子の不自然な仰向けの姿勢を反復しているようにも見える)・・・。すべての場面において、俳優の動きと光と音とセットが、互いにせめぎ合いつつ、圧倒的な強度で自己主張してくる映画。それは、1983年という、日本映画のスタジオ・システムがほぼ完全に崩壊した後に光り輝いた最後の光芒のようにも見える。

僕は、改めて「ションベン・ライダー」を観直しながら、その素晴らしさに圧倒された。多分、10代で最初にこの映画を観た時には、この映画の価値のほとんどに気づかずにいたのではないだろうか。この映画の価値が、少なくとも少しは分かるようになったのは、僕がそれなりに四半世紀をかけて映画を観続けたこともあるけれど、多分、それ以上に、映画という表現形態自身が進化したことが大きいと思う。相米的な表現の深みを本当に理解するためには、この四半世紀の映画史的な蓄積も必要だったのだ。そういう意味で、この作品は、映画史に正統な位置を占めるべき作品だと思う。でも、もちろん、すべての偉大な作品がそうであるように、映画は僕たちの言葉を軽々と超えて疾走していく。いまだに僕は、この映画を観ながら、そこで何かただならないことが起きていると感じつつも、それを言語化しようとする前に映画は次の場面に転換しており、僕はただ途方に暮れながら何とかその素晴らしさの片鱗なりとも理解しようと食い入るように画面を見続けるしかないのだ。その意味において、この映画は何度でも繰り返し立ち返って観るべき映画なのだろう。

余談だが、「甦る相米慎二」の中で、この映画のプロデューサである伊地知啓が、4時間半のオリジナル版について語っている。結局、この映画は、半分以下の118分版で公開され、エピソードがつながらないところは、(あまりちゃんとした説明にはなっていないけれど)説明字幕の挿入で処理された。もしも、この4時間半版がどこかに残っているのであれば、多分それは、今観ることができる以上の奇跡的な作品となっているだろう。映画史には時に奇跡が起きる。もしかして、将来、この4時間半版が「発見」され、公開されることになったら、多分、日本の映画史は大きく書き換えられることになるだろう。想像するだけでわくわくする。「ションベン・ライダー」は、こんな風に、今でも僕たち映画好きの感性を刺激し続けるのである。

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