相米慎二監督「雪の断章 情熱」

相米慎二監督特集「雪の断章ー情熱」を観る。1985年の作品。斉藤由貴の初主演作品。脚本に田中陽造が入っている。公開当時に見逃してしまい、ずっと気になっていたけれどそのままになっていた作品をようやく観ることができた。少女漫画のノリの作品だと思っていたけれど、さすがは相米監督。幻想的な作品に仕上がっている。

物語は、孤児の夏樹伊織(=斉藤由貴)を巡って展開する。伊織は、孤児院から富裕な那波家に養子として引き取られたが、養子とは名ばかりでお手伝いとして虐待されていた。ある夜、伊織を見かけた広瀬雄一(=榎木孝明)は伊織の悲惨な境遇を見かねて彼女を引き取り、親友の津島大介(=世良公則)と共に、育てることにする。それから10年後、北海道大学への進学準備にいそしむ伊織たちと同じマンションに、那波家の長女・裕子(=岡本舞)が引っ越してくる。内心、穏やかではない伊織だが、彼女の歓迎会に雄一、大介と共に歓迎会に参加する。しかし、歓迎会のさなか、裕子は何者かに青酸カリを盛られて殺される。彼女にコーヒーを運んだ伊織に、吉岡刑事(=レオナルド熊)は容疑の目を向ける。。。

この映画の冒頭も、超絶的な長回しで幕を開ける。子供時代の伊織が、外にお使いに出され、雪の中、ジュースを持って雪が積もった橋の上を綱渡りでもするかのように歩いている。川に落ちることを心配して雄一が彼女の後を追い、何とか抱きしめて救い出す。伊織から話を聞いて悲惨な境遇にあることを知った雄一は、那波家を訪れ、伊織を引き取ることを告げる。そして、宿舎に戻り、大介に伊織を紹介する・・・。この長い場面が、ワンシーン・ワンショットで提示される。雪が積もるセットの中、カメラは縦横無尽に動き回り、時制は時に交錯して翌朝の場面から回想シーンの形で前夜の那波家の場面へと遡り、さらにその中に幻想的な人形の姿が挿入される。悲惨な孤児の物語でありながら、どこか現実離れした光景が描かれることで、映画全体の幻想的なトーンが示される。「ションベン・ライダー」の冒頭の長回しに匹敵する奇跡的な長回しだと思う。

この素晴らしいオープニングの長回しの後、映画は10年後に飛ぶ。いきなり、バイクの後部座席で仰向けになって歌っている斉藤由貴のバストショットにつながるのでちょっとびっくりさせられる。いつものように相米監督は、女優に不自然な姿勢を強いる。たぶん、そうすることによって、相米監督は女優から演技を超えた何かを引き出そうとしているのだろう。女優にとっては迷惑な話かもしれないけれど、結果的に、斉藤由貴はこの初出演作品で女優としての潜在的可能性を開花させた。その演技は魅力あふれるものになっている。

その後、映画は、殺人事件の犯人捜しと、伊織・雄一・大介を巡る三角関係を軸に展開していくだろう。これまでの相米映画と同様に、思春期から大人へと移行する境界線上でためらう少女の不安定な心理を相米監督は描いていく。そして、いつものように、ヒロインは大人の世界に足を踏み入れようとする自分に戸惑い、そんな自分を持て余すように家出して水の中に身体を浸す。それは、相米映画におけるヒロインの通過儀礼のようだ。但し、「雪の断章」では、この通過儀礼に、少女時代の彼女とそれを見守るピエロが付き従う。そこがこれまでの相米映画とは異なる点だ。

長身のピエロと戯れる少女時代の伊織の姿は、もしかしたら伊織の心の中で保っておきたい雄一と少女・伊織のイメージかもしれない。あるいは雪が積もった橋を渡っていて雄一に助けられた少女・伊織の思いが残像のように10年後に残っているのかもしれない。10年を隔てた二人の伊織というテーマは、例えば「お引越し」の田畑智子が最後にもう一人の自分と出会う場面と反響しつつ、相米的な「取り替え可能な他者」という主題を提示する。その取り替え可能性は、雄一と大介にも適用されるだろう。大介自身が、雄一に向かって、「もしもお前ではなく、俺が伊織と最初に出会っていたら、どうなっていただろう」と呟くように、この映画では、取り替え可能性、あるいはもしかしたらあり得たかもしれないもう一つのありようという主題が、大きく浮上してくる。さらに、この取り替え可能性は、孤児という境遇を共有する大介と伊織の間にも当てはまるだろう。大介もまた、あの時自分が孤児にならなかったならというあり得たかもしれないもう一人の自分という想いを抱え込み、その救いを伊織に求めようとする。こうした輻輳する関係性が、これまでの相米映画からさらに進化した多層的な世界を提示する。

このことは、この映画のカメラワークからも伺える。冒頭の長回しから始まって、この作品ではカメラがしばしば窓の外から室内をのぞき込むような動きを見せる。これまでの相米作品でも、窓の外から室内を描くカメラワークはしばしば見られたが、「雪の断章」のカメラワークでは、それが際立っている。さらに、そのカメラは固定ショットではなく、移動ショットが中心である。それは、まるで誰かが伊織のことを心配して窓の外から彼女の様子をうかがっているようにも見える。

興味深いのは、映画の最後で、伊織が大人の女である自分を受け入れる場面において、カメラは逆の動きを見せる点である。カメラは、室内にいる伊織の姿を映し出すと、そのまま彼女をフレームアウトさせてゆっくりと窓の方に移動していく。これまでとは逆に、室内から窓の外を映し出すのだ。そのカメラに映し出されるのは、何度か映画の中で登場してきた人形である。人形が、窓の外から室内を覗いている姿をカメラは映し出す。その時、観客は、これまで窓の外から室内をのぞき込むように撮影されていたカメラワークが、実はこの人形の主観ショットだったのかもしれないことに思い至るだろう。そう、この映画は、成長し、大人の女に変わっていく伊織を見守る人形たちの視点で語られた物語だったのだ。それは、冒頭の長回しで、伊織が雄一によって橋の上から助け出された時に、橋を横切っていくあの人形なのだろう。

あるいは、別の物語の可能性も考えられる。冒頭の長回し場面で、伊織は雪が積もった橋の上をまるで綱渡りでもしているかのように危うい姿勢で歩いていた。この場面は、雄一が伊織を救い出すことで終わるわけだが、もしかしたら彼女は雄一に助けられることなく、足を踏み外して雪で凍った川の中に転落し、そのまま幼い命を失っていたかもしれない。彼女の10年後の生は、雄一に助けられずに命を失ったかもしれないもう一人の自分と引き換えに与えられたものなのだ。とすると、この映画は複雑な様相を帯びてくる。伊織が、大人になることにためらいを感じる度に幻視する少女とピエロの姿は、伊織の心象風景などではなく、雄一に助けられなかったもう一人の伊織の魂であり、時々顔を出す人形たちはそのもう一人の伊織の使いだとしたら。。。。

人生とは、選択の積み重ねである。何かを得ることは、何かを断念することである。いわば、人生とは絶えず断念され、見捨てられた無数のあり得たかもしれない可能性の集積の上に成り立っている。言い換えれば、このように捨てられた無数の可能性が現在の生を見つめているからこそ、人はその実現されなかった可能性の重みという責任を自ら引き受け、次のステージへと自分を成長させていくことができる。「雪の断章」という映画は、一見、少女から大人の女へと言う相米的主題を反復させているようでいて、このような過去と未来の相克という新たな主題を導入する。それは、「お引越し」の「おめでとうございます」という田畑智子の祝詞にも似た叫びへとつながっていくだろう。その先には、例えば、夜の北海道の冷たい川を渡り、自分の生死の判断を何者かに委ねるように雪の中で踊り続ける小泉今日子の姿にもつながっているのかもしれない。生と死は紙一重であり、人生とは、この微妙な境界性を綱渡りのように歩いて行くものである。しかし、同時に、そのような生だからこそ、過去のありえたかもしれない可能性までをも積極的に引き受けて、責任を持って歩んでいくべきものでもあるのだ。

この映画は、斉藤由貴の初主演作であり、彼女が女優としての可能性を開花させた作品として知られるが、もしかしたら、相米監督自身も、新たな世界の可能性を見いだした作品なのかもしれない。

シェア!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。