相米慎二監督「魚影の群れ」
相米慎二監督特集「魚影の群れ」。1983年公開作品。脚本は田中陽造。緒形拳、夏目雅子、十朱幸代、佐藤浩市らが出演している。
相米の作品系列では、多分、異色の作品だと思う。これまで彼が撮ってきた子供たちの世界を離れて、テーマは海の男である。また、出演も緒形拳や夏目雅子のような大物で、これまでの相米作品に登場した若手のアイドルとは異なる。相米監督作品の魅力は、何回ものテイクを経て俳優が演技を超えた何かを発現させる瞬間を画面に定着させようとする点にあるけれど、大物の俳優にこれを要求するのは難しかっただろう。彼らは、確立されたプロの俳優なのだ。この映画を観ていると、よくできた映画だと思う反面、相米らしさが薄められているなと感じるのは、たぶん、そういうところにあるのだと思う。
物語は、下北半島の漁港・大間のマグロ漁師・小浜房次郎(=緒形拳)と、彼が男手一つで育て上げた娘・トキ子(=夏目雅子)、そしてトキ子の恋人で彼女のために一人前の漁師を目指す青年・依田俊一(=佐藤浩市)を巡って展開する。そこに、房次郎の別れた妻アヤ(=十朱幸代)のエピソードが絡む。
僕は、最初にこの映画を観た時、ただただ海上でマグロと孤独に格闘する房次郎の姿だけが印象に残った。マグロ釣りは、本当に厳しい。釣り糸のテグスだけを頼りに100キロを超えるマグロと格闘し、何とか船の近くにまで引き寄せてとどめを刺さなければならないのだ。映画の中でも描かれているように、テグスに巻き込まれて腕や足を失ったり、時には命を失うこともあり得る過酷な漁である。実際に、マグロ相手に格闘する緒形拳を黙々と映し続けるのを観ながら、相米監督はこんな映画も撮ることができるのかと妙なところで感心したことを覚えている。
そういう意味で、この映画は、これまでのある種アナーキーな作品群と異なり、とても正統的に撮られた映画だと言える。良くも悪くも普通の映画になっている。
とはいえ、そこは相米監督。随所に彼の独特の演出スタイルは残されている。
例えば、冒頭の場面。いつものように、砂浜に残された足跡を辿る長回しから映画は始まる。カメラの先には、佐藤浩市と夏目雅子が急な砂浜を上っている。夏目雅子の手には赤いパラソル。砂に足を取られて悪戦苦闘しながら砂浜を上っていく姿は、他の相米映画同様に、俳優に通過儀礼のように不自然な動きを強いる相米の演出意図を強く感じさせる。
あるいは、自転車に乗って坂道を下っていく夏目雅子を映した長回し場面。足を広げ、大声で知り合いに声をかけながら長い坂を自転車で疾走する夏目雅子の姿は、「翔んだカップル」のあの有名な薬師丸ひろ子の自転車の場面と重なる。ただ、夏目雅子は、どこか居心地が悪そうだ。それは、彼女のような完成された女優には仕方がないことなのかもしれない。
むしろ、相米らしさが発揮されるのは、緒形拳が、北海道で別れた妻アヤと再会する場面。クレーンを駆使した長回しと、その後に降り始める強烈な雨で印象的な場面に仕上がっている。雨の中、傘も差さずに緒形拳から逃れようとする十朱幸代と、こちらも傘を差さずに黙々と追い続ける緒形拳。歩道を離れて土手を駆け下り、靴も脱ぎ捨ててひたすら逃げ続ける女。彼女は最後には、大雨の中、持っていた買い物袋も捨てて道に倒れ込み、仰向けになって動かなくなる。彼女に追いついた緒形拳との絡み。近づこうとする緒形拳を足で追い払う仕草は、「お引越」の場面を思い起こさせる。そして、大雨に打たれることで、男と女が過去のしがらみを捨てて和解する。相米的な強度を持った場面だと思う。
その後、2人は漁船の中でよりを戻すだろう。その場面も印象的だが、十朱を追ってやってきたヒモの新一とのからみも面白い。夜の闇の中で、新一は打ち上げ花火を手に持って火をつけ、船や海上に打ち込むのだ。夜の海、そこに浮かび上がる打ち上げ花火。房次郎と新一はその後殴り合いをすることになるが、この無意味とも言える花火の饗宴は、相米らしい遊び心を感じた。
こういう感じで、随所に相米的なテイストはあるのだが、映画全体として見るとそれが有機的に統合されているとは感じられない。本筋が重すぎるし、マグロ釣りの場面が長すぎる。135分という上映時間にも問題があるだろう。物語の主役は誰なのかもよく分からない(赤いものを身にまとった者が相米映画における主役であるとすれば、この映画で常に赤をまとい続けている緒形拳が主人公と言うことになるが、それで良いのだろうか?)。
今回、改めて観直してみて、一つ、不思議に感じることがあった。夏目雅子は、なぜか男たちの服を脱がせたり着せたりするのだ。父親の緒形拳が酔っ払って足元をふらつかせれば、抱えて布団まで運び、着ている服を脱がせて下着姿にする。夫である佐藤浩市が酔えば、同じように服を脱がせてやる。逆に、服を着せてやるのも彼女の役割だ。佐藤浩市の船からの連絡が途絶え、疎遠になっていた父親の元を訪ねて捜索を頼む際、布団から起き上がった緒形拳の合図でいそいそと服を持ってきて着せてやる姿は、まるで我が子に服を着せてやる母親のようでもあり、あるいは恋人通しの戯れのようにも見える。夏目雅子に、男たちの服を脱がせたり着せたりさせること。それがどんな演出意図を持っているのか、これによって夏目雅子が演ずるトキ子にどのようなキャラクターを与えようとしたのか、正直、観ていてよく分からない。ただ、この場面だけが、何か本来観てはならないとてもプライベートな場につい立ち会ってしまったかのような違和感を強く感じさせるものだったことだけは、記録として残しておきたい。