フランシス・フォード・コッポラ監督「ドラキュラ」

相米慎二監督特集が終わり、ちょっとしたロス状態になっているので気分を変えてDVDを借りに行く。とりあえず、フランシス・フォード・コッポラ監督の「ドラキュラ」をレンタル。90年代の彼の作品を全く観ていないのでキャッチアップのつもりだったけど、これが面白い。2000年代の「胡蝶の夢」や「ヴァージニア」を先取りするようなバロック的魅力あふれる作品だった。例によって、映画の神様に懺悔する。こんな面白い作品をスルーしていたなんて。。。

「ドラキュラ」は1992年の作品。出演は、ドラキュラ伯爵がゲイリー・オールドマン、ドラキュラ伯爵が追い求めるミナ・マーレイがウィノナ・ライダー、そのフィアンセのジョナサン・ハーカーがキアヌ・リーブス、そしてドラキュラ伯爵の宿敵ヴァン・ヘルシング教授がアンソニー・ホプキンスと豪華なメンバーである。

この映画の原題は、「ブラム・ストーカーのドラキュラ」。原題の通り、映画はブラム・ストーカーの原作を忠実になぞることで、これまでのドラキュラ映画とは一線を画すロマンスあふれる作品に仕上がっている。中心になるのは、吸血鬼と人びとの戦いではなく、ドラキュラ伯爵とミナの時を超えたロマンス。ドラキュラ伯爵は、15世紀にルーマニアのトランシルヴァニア城主としてキリスト教を守るために異教徒であるトルコ軍と戦い敵を打ち負かすが、最愛の妻エリザベータはドラキュラ伯爵が戦死したという虚偽の手紙を信じて投身自殺してしまう。自ら命を絶った者は神の国に迎えることができないと言い放つ司祭の言葉に激怒したドラキュラ伯爵は、司祭を殺し、十字架を刺し貫いて神への復讐を誓い、吸血鬼として長らえることを選択する。

それから400年後のロンドン。ドラキュラ伯爵は、不動産を購入するためにロンドンから弁護士ジョナサンを呼び寄せる。彼は、ルーマニアからロンドンに移住する計画を立てていた。そして、ジョナサンのフィアンセ・ミナの写真に亡き王妃エリザベータの面影を見いだしたドラキュラ伯爵は、ジョナサンを城に幽閉し、単身、ロンドンに向かう。。。

映画は、ブラム・ストーカーの原作通り、様々な話者の語りを通じて物語が進行していく。それは、ジョナサンの日記であり、ミナの日記であり、さらには二人の間に交わされる手紙や電報、新聞記事、蓄音機への録音などである。これによって、映画は複数の語りが交錯するポリフォニックなものに変容する。トッド・ブラウニング監督のユニバーサル版ドラキュラが、ホラー映画として徹底的に語りを透明化して映像で見せるのに対し、コッポラ監督はむしろこの複数の語りがもたらす物語の揺らぎにこだわっているように見える。

さらに、この映画では一つの画面の中に複数の映像が並列し、浸食し合い、万華鏡のように多層化していく。吸血鬼映画の定番である「鏡に映らないドラキュラ」の場面を契機に、映画の中に様々な鏡やガラスが挿入され、ドラキュラの映らない姿を追い求める。これに、誕生したばかりの映画の上映スクリーンや、バートン版の挿絵付き千夜一夜、中世の祈祷書などが加わり、まるでメディアの博覧会のような様相を呈してくる。さらに、ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」で追求された表現主義的な影の映像が画面内を自由自在に動き回る。この光と影の世界に対抗するかのように、赤い血やワイン、白いドレスや涙の石などの色彩が乱舞する。

コッポラ監督は、ユニバーサル映画のホラー・ジャンルにも、90年代に流行したスプラッタ・ホラーにも全く関心がないかのように、恐怖からはるか遠いところで、画面を様々な色彩と形態と皮膜で覆い尽くし、そこに断片的な身体のアップや唐突に宙に浮かび上がる巨大な眼などのイメージを奔流させる。カットを唐突につなげたかと思うと、アイリスから円形を媒介に瞳につなぐなどのアクロバティックなつなぎを強引に進めていく。それはまるで、これまで誰も見たことがない映像を生み出したい純粋な欲望のようだ。ポストモダンに徹して、これまでのジャンル映画を無効化すること。それによってスピルバーグ的な見せ物ではない、新たな映像表現を提示すること。それがコッポラン監督の目的だったのかもしれない。

それにしても、ここでもまたコッポラ的な主題は反復される。それは、ある過剰な才能の暴走であり、あるいは時を超えた転生である。脚本を担当した「パットン大戦車軍団」や、2000年代に監督した「胡蝶の夢」や「ヴァージニア」のように、ここでもコッポラ監督は輪廻転生にこだわる。はるかな時を超えて継承される記憶。突然の邂逅と唐突な過去の想起。神秘主義者コッポラ監督の面目躍如となる主題である。

映画は、最後、神を呪ったドラキュラ伯爵が、愛の力によって再び神の王国に戻ることで幕を閉じる。ドラキュラ伯爵によって刺し貫かれた十字架からほとばしり出た血は回収され、永遠の不死は神の元での休息に変わる。その時、人の生き血を吸って永遠に長らえる吸血鬼というモンスターの物語は、神の血を流したことによって生と死が支配する世界から追放されたさまよえる魂が愛によって救済される物語に転換するだろう。こうして、コッポラ監督は、原作に立ち返ることによってホラー映画におけるモンスターの物語に高い精神性を付与する。その試みは、2年後の1994年に製作に携わった「フランケンシュタイン」でも繰り返されるだろう。映画史に深い敬意を払いつつ、それを根本的に脱構築して新たな世界を構築すること。やはりコッポラ監督はただ者ではない。

シェア!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。