グレタ・ガーウィッグ監督「ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語」
グレタ・ガーウィッグ「ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語」を観る。そう、あの名作「若草物語」のリメイクである。もちろん、若草物語のリメイクという点でも興味があったけど、それ以上に、今、気になる女優・脚本家・監督であるグレタ・ガーウィッグが、この古典的名作をどのように21世紀に復活させるかという点が気になった。
なにしろ、彼女は、「フランシス・ハ」の脚本兼主演女優なのだ。公開当時、ニューヨークで暮らしていた僕は、映画好きのニューヨーカーが「フランシス・ハ」はすごいと噂話をしていて早速観に行ったんだけど、本当に素晴らしかった。ニューヨークでダンサーを目指す女の子が住む場所をなくして、一夏、知り合いの家を転々とする物語。ただそれだけの物語なのに、彼女が画面に出るだけで、妙におかしな空気が漂い出す。それは、グレタ・ガーウィッグという女優が醸し出す、どこか居心地の悪い感じ。なにかがうまくはまっていなくて、それを何とかしようとすると、ますます状況が悪化していってしまう。でも、それが悲劇にならずにコメディになってしまうという、本当に謎のような存在だった。これはすごい才能が現れたな、と実感した。動きもすごい。デビッド・ボーイのモダンラブをバックにニューヨークの街を疾走し、派手にこける場面は何度観ても感動する。ただ走り、ただこけ、ただ起き上がってまた走り出す。その姿がなぜこんなに楽しく、愛おしいのか。ノア・バームバック監督の演出以上に、彼女の身体のどこかずれた感じがこの場面を魅力的なものにしている。それが、グレタ・ガーウィッグという人の才能だと思う。
もちろん、「レディ・バード」も素晴らしい。シアーシャ・ローナンという女優を得たグレタ・ガーウィッグは、多分、ジャン=ピエール・レオと出会ったトリュフォー監督と同じぐらい幸福だったのではないだろうか。それぐらい、グレタ・ガーウィッグ監督が描くある種の居心地の悪さと、それにもかかわらず家族や世界に愛おしさを感じてひたむきに生きていこうとする女性像をシアーシャ・ローナンは体現していた。何しろ、母親からNYの大学に行かせないと言われて車の助手席から飛び降りてしまう女の子である。こんなキャラを違和感なく演じられる女優はそうそういない。
グレタ・ガーウィッグ監督のこれまでの歩みを振り返ってみると、「若草物語」の主人公ジョーは、まさにグレタ・ガーウィッグ的人物だと思う。彼女もまた、19世紀アメリカで女性に期待されていた役割に違和感を感じ、結婚が女性の幸福だという考え方を否定して独立した女として生きようとする。ただそういう観念的な部分だけでなく、森を走り、他の姉妹達と取っ組み合いの喧嘩をし、あるいは男性に言い寄られてもついその場にそぐわない発言をしてしまうところが、本当にグレタ・ガーウィッグ的人物そのものなのだ。きっと、グレタ・ガーウィッグはずっと前から「若草物語」のリメイクに取り組みたかったに違いない。だから、この映画は、彼女がようやく夢が叶ったという喜びに満ちた映画になっている。
物語は、ほぼマーヴィン・ルロイ監督の若草物語と同じである。あの魅力的な屋根裏部屋も、居心地の良いダイニングも、さらにはジョーがNYで過ごす下宿屋も、ほぼマーヴィン・ルロイ監督が生み出したセットを踏襲している。グレタ・ガーウィッグ監督のオリジナル作品に対する愛が感じられる。
しかし、稀代のストーリー・テラーであるグレタ・ガーウィッグ監督の語りは奔放である。マーヴィン・ルロイ監督版が、ほぼ時間軸通りに物語を語っていったのに対し、グレタ・ガーウィッグ監督は、NYで出版社に原稿を持ち込むジョーのエピソードから物語を開始し、過去と現在を自由に往還しながら物語を綴ってゆく。その語り口の自由さとスピード感が心地よい。現在から回想シーンへ、そしてまた現在へと言う流れが一切停滞せずに進行していく。うまいと思う。
さらにグレタ・ガーウィッグ監督は、マーヴィン・ルロイ監督版では充分に語られなかったエピソードを組み込む。マーヴィン・ルロイ監督版が、ジョーと三女のベスの関係を軸にしていたのに対し、グレタ・ガーウィグ監督版では、四女のエイミーが大きな役割を果たす。特に、ジョーがローリーのプロポーズを断り、失意のうちに彼がヨーロッパに旅立って、そこでマーチ叔母さんと一緒にパリに滞在しているエイミーと再会する場面を丁寧に描く。マーヴィン・ルロイ監督版ではあまり語られなかったエイミーの画家としての才能もきちんと描かれる。そこに、グレタ・ガーウィッグ監督の優しさを感じる。
マーヴィン・ルロイ版では結婚願望があるだけの何も考えていない女の子として描かれていたエイミーが、実はマーチ叔母さんに諭され、一家のことを考えて結婚の準備を進めていながら、最後に自分に誠実になってある決断を下す。この場面をきちんと映画に描き込むことで、グレタ・ガーウィッグ監督は、「若草物語」がはらむ結婚願望というテーマを相対化し、女性たちが、その時々の与えられた現実の制約の中でも、決して諦めずに自分らしさを貫こうとしている姿を共感を持って提示しようとする。
だから、映画の最後は、マーヴィン・ルロイ版と異なり、ジョーが結婚を決めるところでは終わらない。そもそも、ジョーの結婚のエピソードにも一ひねりが加えられる。そこは、ぜひマーヴィン・ルロイ版を観た後で、グレタ・ガーウィッグ版を観てほしい。古典のリメイクには、色々なアプローチがあるけれど、これだけ原作に敬意を表し、原作を忠実に再現しようとしつつ、そこにささやかなエピソードを加えることで現代人の感覚にあったものに作り替えてしまう手腕には頭が下がる。やはりグレタ・ガーウィッグは才能がある人だと思う。
ここまで書いてきて、ふと「フランシス・ハ」という作品も、「若草物語」の翻案だったのではないかという気がしてきた。フランシス・ハが、NYでダンサーを志していたこと、でも才能を認められず落ち込むこと、ヨーロッパへのあこがれ、女友達との親密な関係、男性から言い寄られた時の絶妙な間の外し方、そして最後に自分の夢を叶えて自立していく姿・・・。あるいはこのリストに、走ること、踊ること、楽器を演奏すること、本を読むこと・・・を加えても良い。今から思えば、「フランシス・ハ」の様々な魅力的細部は、「若草物語」にインスピレーションを得たものだったのかもしれない。やはり、グレタ・ガーウィッグ監督にとって、「若草物語」は特別の作品だったのだろう。