《米谷健+ジュリア展》だから私は救われたい@角川武蔵野ミュージアム

新しくできた角川武蔵野ミュージアムの見物もかねて、「米谷健+ジュリア展 だから私は救われたい」を観に行く。米谷健とジュリアはパートナーとして現代アート作品を制作しているユニット。オーストラリアで活動を開始し、現在は、京都の農村で無農薬農業を行いながら作品を制作しているとのこと。

基本的に、彼らの作品は環境を意識したコンセプト・アートである。例えば、Dysbioticaは、全身にびっしりと胞子か触毛のような奇妙な物質をまとった人物の造型である。人間の形をかろうじてとどめているけれど、その形態は頭部が異様に退化していてどこか反自然的な手触りを感じさせる。作家によると、これは人間と微生物との均衡が崩れた世界を表しているとのこと。確かに、その姿には禍々しいものが感じられる。

あるいは、クリスタルパレス。ウランガラスで創られたシャンデリアのインスタレーションで、暗闇の中、ブラックライトの照射によって幻想的な緑色の光を発するシャンデリアは美しい。それぞれのシャンデリアには原発保有国の名前がつけられ、は大きさや形が異なる。それは、各国の原発による電力の総出力規模をシャンデリアのサイズに比例されたからだとのこと。その美しさの背景には、原発という危険なテクノロジーに電力を頼る人類の狂気が垣間見えるという仕掛けになっている。

最後の晩餐は、まさに最後の晩餐のテーブルを復元した作品。素材は、オーストラリアの塩害で苦しむ地域からくみ出された地下水から精製した塩だとのこと。塩害の原因は、大規模農業のための過度の灌漑による地下水の減少である。その被害を食い止めるために精製された塩を使って、最後の晩餐のテーブルを復元することで、大規模農業による自然破壊が結局、人類の「最後の晩餐」へと至る危険性に警鐘を発した作品となっている。

こういう形で、各作品のコンセプトを並べていくと、なるほどと納得させられる。ただ、そういうコンセプトを離れて作品を見ても、その一見した美しさと、素材の特異さによる違和感は独特のものだ。アートとしての強度を持った作品だと思う。

ちなみに、この展覧会は一つのホールに5つの作品が設置されているだけのシンプルなもの。ただ、観客は併設された展示も見ることができる。それは、武蔵野ギャラリーにおける「武蔵野三万年ことはじめ」、武蔵野回廊の「武蔵の再発見!赤坂憲雄選書の250冊!」、さらに常設展示として「本棚劇場」、「荒俣ワンダー秘宝館」、「エディットタウン」などである。角川書店だけでなく、哲学から人文社会科学、アートなど様々な分野の図書が本棚に並んでいて自由に読むことができるし、荒俣さんお気に入りの動物標本や魚介標本(ほとんどアート担っている美しさでした!)なども展示されていて、それなりに楽しめる。これで1400円というのは高いのか安いのかよく分からないけれど、まあ、それなりに楽しい時間を過ごすことができそうである。さらに、角川発行のマンガ・ラノベ図書館や1階のグランドギャラリーで開催されている「荒俣宏の妖怪伏魔殿2020」なども含めた1Dayパスポートは4400円とのこと。私みたいな古いタイプの人間は、そんなものに金を払うぐらいなら公立図書館に行けば良いと思うけれど、まあ、払いたい人はいるでしょうね。リピーター向けには、値段を安く抑えた回数券やウィークデーパスポートも用意されているようです。この試みが成功するかどうか、まずは今後の展開を見たいと思います。

余談ですが、隈研吾さんの建築は、外壁を大理石で覆ったゴツゴツした立方体の組み合わせで、どこか古代のモニュメントを思わせます。エントランスには、鴻池朋子さんの巨大な皮のペインティングが掲げられ、さらに祝祭的な雰囲気を漂わせています。中に入ると、一転して、木を基調にした本棚ギャラリーやサロンで、和のテイストを感じさせます。また、ミュージアムの隣には、天照大神を祀った神社も設置されていて日本的な感性を感じさせます(とは言え、エントランスに赤い鳥居のトンネルをあしらっているところはめちゃくちゃですが。。。それはお稲荷様のためのもので、天照大神に失礼だろうと思わず突っ込みを入れたくなります)。

ということで、角川グループが総力を結集して創り出した新たなタイプの文化複合施設。図館長は松岡正剛さん、アドバイザリーボードに隈研吾、荒俣宏、神野真吾が入っていますので、それなりに仕掛けはしていくのでしょうね。書館・美術館・博物館が融合し、メインカルチャーからポップカルチャーまでの文化発信を目指すとのことなので、これがどのように受け入れられるか注目したいと思います。

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