庵野秀明総監督「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

庵野秀明総監督「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観に行く。僕が観たのは公開2日目だけど、月曜日の公開にもかかわらず公開初日で興行収入8億円&観客動員数80万人の大ヒット・スタートだそうだ。新型コロナウィルスで公開延期で焦らしたうえに、周到に「鬼滅の刃」を避けたところが勝因か。。。Twitterで検索をかけても「ありがとう」「観てよかった」「感動した」「もう一度みたい」・・・と絶賛のツイートが延々と続く。やはりエヴァンゲリオンの影響力はすごい。

(以下、思いついたことを書き付けておきます。ネタバレ全開なので、まだ観ていない人は読まないでくださいね。)

エヴァンゲリオン・シリーズについては、テレビ版についても、劇場公開版序・破・Qについても以前のブログで取り上げた。僕の正直な感想は、テレビ版に結構うんざりし、劇場公開版では割と評価が上がったけれど、今回のシン・エヴァンゲリオン劇場版でまたテレビ版とおなじことするの?とあきれた、というところ。但し、映像の質とテクノロジーは圧倒的だし、テレビ版と劇場公開版であちこちにばらまいた伏線をきちんと回収しようという姿勢は評価できる。それから、大規模なプロダクションであるにもかかわらず四半世紀前に議論を呼んだテレビ版の結末を堂々とリピートしたところは、ある意味、作家として腹が据わっているなと感じた。これから世界中で公開されるかもしれないエンタテイメントの商品性をあえて破壊しようという身振りは、もしかしたらそれ自身が周到に用意されたマーケティング戦略かもしれないにせよ、エヴァンゲリオンという物語世界をユニークなものにしている。

それは、映画の最後、「大人になった」シンジ達が、アニメの世界から実写の世界に飛び出した姿を俯瞰し、さらに街並みの全貌を見下ろす画面で幕を閉じるところにも現れている。おそらく、庵野監督が青春時代を過ごした山口県の街並みが映されていると思われるけれど、巨額の資金を投じたエンタテイメント大作を、こんな自主上映作品的なノリでプライベートに終わらせるところに、庵野監督の強い意思表明を感じる。

商品性という点でまず驚くのが、3人の監督+庵野総監督のカラーがまったく異なる点。一つの映画の中に3つの世界(+1エピソード)が共存している感じ。一つは空中要塞を拠点にNERVと戦うヴィレの世界、もう一つはシンジやレイが飛鳥に伴われてひとときを過ごす村の世界、そして最後に十三番目の使徒の復活を巡ってNERVとヴィレが戦う異空間。それぞれ絵柄も演出スタイルも異なる。ほとんど一つの作品としての統一性が取れていないし、それぞれの場面が自己主張していて無意味に長い。

さらに、(おそらくは庵野監督自身の思い入れが詰まった)ゲンドウの回想エピソードが加わる。ラフ・スケッチでアニメーターに対する指示が手書きで書かれたイメージ・ボード風の場面が続く。かと思うと、父子がそれぞれ搭乗するエヴァの市街戦が気づいたらお茶の間や学校の教室に場面転換する。虚構世界を実体化させるために記憶を使っているとなおざりに説明がつけられているけれど、これはどう考えても庵野監督の遊びの部分だろう。あるいは、決して大文字の物語には回収されまいと言う彼の意地か。

ついでに言うと、幾つかの点でストーリーにも齟齬がある。多分、最後はまとめきれなかったのだろう。シンジと父のゲンドウが対話する場面では過去の登場人物が召喚され、あえて混乱させるようなエピソードが挿入される。リョウジはサード・インパクトを阻止するために命を落としたように語られているが、同時にヴィレが氾濫を起こした際に命を落としたかのようなセリフもある。さらにリョウジは、カヲルのことをミサトと呼んだりして混乱を助長させる。さらにそれは、アスカが子供時代に戻って出会う相手が大人になったケンスケだったり、絶対に迎えに行くからねととシンジに言ったマリの方が現実世界への帰還が遅れたり・・・と続いていく。この辺は、演出なのか混乱なのか正直よく分からない。まあ、そもそもテレビ版と新劇場版三部作では細部が異なっているのに、それをまとめて決着つけてしまおうというんだから仕方がないのだろうけれど。

これは、マリについても当てはまる。マリは、結局、主要キャラの中で唯一、過去のトラウマを持たないキャラだけど、なぜかゲンドウのことを「ゲンドウ君」と親しげに呼び捨てにし、さらに今回は冬月コウゾウのことを「冬月先生」と呼び、旧知の仲だと言うことが示される。そして、不思議なことに、ゲンドウの回想場面のスケッチにも彼女と同じ人物が描かれているのだ。彼女は何者だろうか?エヴァの全体が、ファースト・インパクト前の若きゲンドウやコウゾウ、ユイなどの開発グループの子供たちの物語であることを考えると、マリもおそらくその仲間の1人の子供であり、チルドレンに選ばれたのだろうというのが素直な解釈だと思うけれど、少し気になる。

多分、こういう形で謎を仕込んでいくのが、庵野監督の戦略なんだろう。今回、シン・エヴァンゲリオンが意味深にも3.0+1.0として打ち出されているところを見ると、もしかしたら庵野監督は、シン・エヴァンゲリオンから新たなシリーズを立ち上げるつもりなのかもしれない。可能性は色々ある。スター・ウォーズと同じように、まずはファースト・インパクトに至る前の若きゲンドウやユイの物語を軸に据え、そこにマリの母親を絡ませたり、ゼーレの陰謀を織り込んでいけば、軽く一作品に仕上がるだろう。スピン・オフとして、サード・インパクト後のヴィレの独立やケンスケやトウジ、委員長などのサバイバルの物語を語れば、もう一つの作品が生まれるだろう。もしかしたら、エヴァンゲリオンの物語、まだこれからも続いていくのかもしれない。

それにしても、僕には、この映画がこれだけ熱狂的に受け入れられることが理解できない。シンジがトラウマ状態になって延々と引きこもり状態になるのを見ていると、また始まったかと思う。レイが農作業をしたり子供の世話をしたりすることで徐々に自我を確立させていく場面も類型的だ。委員長のいちいちのセリフも説教くさい。なんだか、とてもわざとらしく創られた疑似ユートピアに見える。テレビ版のラストを「自己実現セミナー」と批判した大塚さんであれば、この場面は70年代に流行したコミューンへの先祖返りじゃないかと批判するのではないだろうか。いくら何でも、21世紀の令和の世に、土に還り、コミュニティの大切さを思い知るという話はないだろう。

また、物語が佳境に入ったところでシンジがゲンドウに対して繰り返し問いかける「あなたは何故こんなことをはじめたのですか?」という問いも気持ちが悪い。この問いは、もう序破Qの三部作で「亡き妻ユイと再会するため」という回答が語られている。にもかかわらず、あえて繰り返されるこの問いは、庵野監督の「なぜエヴァを作り続けるのか?」という自問でしかない。そんな彼の自意識過剰な答えのない問いに暗い映画館の中で付き合わされるのは不愉快だ。

それから、映画の随所に挿入される解説的なセリフ。まあ、あれだけばらまいた伏線を回収しなければならないわけだから、登場人物のセリフを使って解説しなければいけない事情は分かるけれど、いきなり説明口調になるのは不自然。しかも、説明をするために何度も場面が停滞して寸断される。感覚的には、映画を観ていると言うよりもゲームで遊んでいる感じなのかもしれない。解説的なセリフなど入れなくても、宮崎アニメではとても多くの物語を盛りこむことができるということを、庵野監督はスタジオ・ジブリで宮崎駿監督から学ばなかったのだろうか。

そしてもちろん、シンジとゲンドウの対決と対話。ここまでの物語で、父と子の対決をクライマックスに持ってくることは、当然、予想されたけれど、まさか父親のゲンドウもシンジと同じく自閉症で世間から眼を背けていてシンジと同じ人間だったという結末になるとは思わなかった。これはあんまりじゃないのだろうか。この長い父と子の相克の物語の結末が、「圧倒的な権威と力を持って抑圧していた父が、対話してみたら実は僕と同じ弱くて屈折した存在でした」というオチになるとは思わなかった。庵野監督的には、父と子の対決という大きな物語から逃れたかったのかもしれないけれど、逃れた先がやっぱり自分探しゲームに落ち着いてしまうところが、オタクの限界なのかもしれない。

しかも、映画の結末では、父と共に自ら命を絶つことでこの長い物語を終わらせようとするシンジの身代わりとなって、母親のユイがその役割を引き受ける。父を殺すことに失敗したシンジは、結局、成長のためのイニシエーションの機会を決定的に失うことになる。登場人物が何度もシンジに「大人になったな」と言うセリフを投げかけるのは、このイニシエーション喪失を何とか糊塗するための演出なのかもしれないけれど、セリフだけでは物語に説得力は生まれない。さらに、かつてシンジが様々な女達からカウンセリングを受けたテレビ版の逆を行くように、シン・エヴァンゲリオンでは、シンジがカウンセラーの役割を担う。シンジは、レイやアスカやゲンドウやカヲル達を「救済」し、虚構の世界から現実世界へと彼女たちを送り返す。それを支えるのは、実の母のユイであり、疑似母親の役割を引き受けるミサトの死である。母の死と引き換えに、何とか物語は終わることができたけれど、結局、シンジがイニシエーションの機会を逃してしまったために、その物語の強度が失われてしまっている。

こうやって見てくると、やっぱり庵野監督はオタクなんだという気がしてくる。そして、シン・エヴァンゲリオンとシン・ゴジラの共通性が浮かび上がる。両者ともに、オタクが圧倒的な力に対して立ち向かうお話だった。そこでは、強力なパワーを持った帰国子女(カヨコとマリ)が主人公を立てながら戦いをバックアップしてくれる。様々な困難が発生するが、その度に、機転とオタク達の献身的な努力で切り抜けていく・・・。色々と謎めいたアイテムが登場するけれど、それはあくまでも表層的な記号に止まり、この世界に対する理解を深化させたり、登場人物を成長させたりするわけではない。すべては詰まるところ、監督の閉ざされた自意識の中の決して答えが与えられない問いの循環で終わる。

トラウマを抱えた孤児達の自閉的な物語は、束の間、他者を理解し受け入れる可能性を拓いたけれど、最終的には同じ悩みを抱えた者同士の曖昧なコミュニティに帰還する物語で幕を閉じる。平成の時代の物語は、令和の時代になってようやく完結したけれど、その結末は深く昭和に浸透された、かつて懐かしい人びとが大地に根付き互いに助け合ってささやかに暮らしていくコミュニティへの帰還である。やはり大塚さんが指摘したように、この物語は「自己実現セミナー」なのかもしれない。互いにトラウマを告白し合い、それに向き合うことなくごく曖昧に相互承認することで「救済」されてしまう物語。そして、父と子の相克という男性原理の物語は、なぜか母と子という母性原理の物語に曖昧に回収される。

とは言え、庵野監督とそのチームが生み出したヴィジュアルには圧倒的な迫力がある。ほとんど動きが把握できないスピードで進行する戦闘場面。カメラは自由自在に動き回って空間の上下左右の感覚を無効化する。あるいは、サード・インパクト後に発生した異空間の描写。シールドで守られたコミュニティの一歩外には、赤化した荒涼たる風景が広がり、中空には廃墟と化した巨大な建造物の残骸がゆったりと回転している。こういう終末感あふれるエヴァの風景はやはりすごいと思う。

そして、虚構空間の圧倒的なビジョン。ルドンを思わせる巨大な首だけのユイのイメージが印象的だ。これと対照的に、顔のないユイ(あるいはレイ?同じことか。。。)の無数の身体が行進するイメージ。大量に出現するエヴァ初号機の群れは、どこか精子を思わせる(余談だけど、ミサト達が戦艦で虚構空間に突入する場面は、言うまでもなく戦艦大和シリーズへのオマージュだ。)。この無数の精子のイメージは、ミサト達が戦艦で虚構空間に突入する直前に宇宙空間に放出する無数の種子のイメージとも共鳴している。この種子は、リュウジが密かに収集し育んできたものだ。彼は、ゼーレの陰謀に対抗するのは、NERV的なエヴァによる破壊と生命の新たな段階への飛翔ではなく、そうした徹底的な破壊の後でもなお存続し続ける生命の世界にかけることだと考えた。その成果が、これらの種子である。

あるいは眼のイメージ。アスカは最終的に人の制約を離れてエヴァへと変容を遂げるために黒い眼帯を外して眼から制御装置を取り出す。そのビジュアル自体も圧倒的な迫力だけど、その変容は、さらに大がかりにミサトによって反復される。ミサトは、巨大化し解き放たれたユイが第13のエヴァとしてフォース・インパクトを引き起こすのを阻止するために、戦闘艦を神秘の槍に変容させてユイの赤い眼に突入させるのである。解き放たれた力を制御するため眼に針を突き刺すというイメージ。ダリオ・アルジェントの「オペラ座/血の喝采」から連なる強迫的なイメージは、同時に巨大な卵子に突入する精子のイメージをも喚起させる。しかし、この呪われた受胎には幸福な誕生など約束されておらず、無数の水子達を虚構空間に送り返すだけだ。

もちろん、この虚構世界における流産のイメージは、映画の前半で描かれるコミュニティでの「出産」と「豊穣」というイメージと対比されるだろう。そもそ、シン・エヴァンゲリオンでは、これまでのエヴァ・シリーズではほとんど取り上げられてこなかった「出産」というテーマが大きく浮上しているのだ。ミサトがひそかに産んだ子供は既に時間が止まったシンジと同世代の少年に成長しており、委員長とトウジにも赤ん坊がいる。さらにトウジ達の村では新たな子供たちが生まれ、猫でさえ子供を産んでいる。こうした生命の誕生というテーマは、それ自体、エヴァ・シリーズの新たな展開なのかもしれない。

さらに想像力を広げると、虚構世界での無数の水子達による流産のイメージは、リュウジが残した種子がまるで卵子のような地球へと落下したイメージと対比されているのかもしれない。映画では明示的に描かれていないけれど(わずかに、地表に到達した種子搬送キットの残骸が映し出されるだけだ)、ミサトが最後の戦いに臨む前に放出したリュウジの種子は、大量の精子のように地球上に降り注ぎ、そこで新たな命を育みはじめている。ミサトがゲンドウに抗して「私は、そんな新たな生の形ではなく、今現在の人間達が生き抜いていこうという意思にかけます」という言葉に呼応するかのように、エヴァを巡る抗争で疲弊し破壊した地球上でも、生命は子を産み、種子を発芽させて新たな生を育んでいくのだ。

このように、シン・エヴァンゲリオンを別の角度で見直していくと、男女という性の役割の曖昧さと互換性という言う主題も新たに浮上する。そもそもマリはアスカを姫と呼んで慕うと同時に、シンジをわんこちゃんと呼んでちょっかいをかけるバイセクシャルだ。そして、戦いを主導するのはミサトやアスカなどの女達で、シンジに代表されるように男達の存在感は希薄である。既に述べたように、地球生命の継続のためにせっせと種子を収集・保管するという女性的役割を担うのはリュウジであり、それを「射精」するのはリュウジではなくミサトである。このように、シン・エヴァンゲリオンの世界はまるで男女の役割が交換された女系社会のような様相を帯びている。その背景には、遺伝子テクノロジーを高度に発展させた社会では、受胎なしに生命の創造が可能で、男などいなくても社会は機能するという文明史的な転換への予感があるのかもしれない。

多分、シン・エヴァンゲリオンを本当に楽しむためには、オタク的なノリや、あちこちにばらまかれた謎の伏線とその回収や、美少女戦士系のエロスや、陰謀論的な細部のアイテムや、あるいは庵野監督が抱え込んだ閉塞的な自意識の堂々巡りなどに捕らわれることなく、このチームが図らずも作り出してしまったこうしたイメージの連鎖に瞳を凝らす必要があるのだろう。これら断片的なイメージを、物語や意味に回収してしまうのではなく、ただその強度だけに集中して見続けること。製作チームが意識せずに露呈させてしまった象徴的なイメージを注意深く辿っていくこと。もしかしたら、そこには、製作チームが思いがけず接続してしまった人類の膨大なイメージのアーカイブからのメッセージが隠されているのかもしれない。

やれやれ。延々と悪口を連ねてきた結果が、最後にはもう一回シン・エヴァンゲリオンを見直す気にさせる結論になってしまった。何というか、この作品は、観ている時は庵野監督のオタク的自意識にイライラさせられるんだけど、振り返ってみるとどこか切り捨てられない愛おしい細部が浮かび上がってくる不思議な魅力を持ってるんですよね。こうして、僕らは庵野監督のマーケティング戦略に取り込まれていくのかもしれない。。。。

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