デルマー・デイヴィス監督「襲われた幌馬車」

仕事に追われていて映画館に行く時間が取れない。仕方がないので、家にこもってBSシネマで録画したままの昔の作品を観る。今日は、デルマー・デイヴィスの「襲われた幌馬車」。1956年公開の西部劇。主演はリチャード・ウィドマーク。

物語の舞台はアリゾナ準州の荒野。コマンチ族に育てられた白人のコマンチ・トッドと男達の死闘で映画は幕を開ける。水辺に近づく人と馬を物陰からコマンチ・トッドが撃ち殺す場面で物語が始まり、その後、何の説明もなく銃撃戦と追跡劇が続く。彼らが何のために殺し合っているのかが分かるのは、コマンチ・トッドが遂に男達の最後の生き残りに捕らえられて連行される途上、幌馬車隊に遭遇した時だ、そこで、男は幌馬車隊を率いるノーマンド大佐に、自分は保安官のブル・ハーバーで、殺人罪のお尋ね者のコマンチ・トッドを捕縛して街まで連行するところだと説明する。ようやくそこで観客は状況を理解することになる。幌馬車隊は、その後、アパッチの襲撃に遭う。映画は、偶然にも生き残ったコマンチ・トッドと数名の若者達が、アパッチの大部隊から逃れるために、死の谷を越えて街に向かう様子を描いていく。

1950年に監督した「折れた矢」で、これまでの紋切り型を打破し、高潔で名誉と正義を重んずるネイティブ・アメリカンと、ネイティブ・アメリカンを人間扱いせずに残虐な行為を繰り返す白人を登場させて西部劇に歴史修正主義をもたらしたデルマー・デイヴィス監督。この映画でも主人公のコマンチ・トッドは、白人でありながらコマンチに育てられた正義感と合理主義に徹した人物として描かれる。これに対して、白人の多くは、差別意識が強く、高慢で、平気で人の心を踏みにじる。しかし、白人たちは西部の荒野に取り残されてしまえば生活力はなく、コマンチ・トッドに頼らざるを得ない。コマンチ・トッドは、白人の若者達に荒野でのサバイバル術を説き、合理主義に徹してアパッチの襲撃から逃れる方策を模索する。そこがこの映画の中心的なテーマとなる。

もちろん、それだけでは西部劇として成立しないから、様々なエピソードが加えられていく。コマンチ・トッドから生き残った男の子に伝えられるサバイバル術の数々。そして男の子の姉ジェニーとコマンチ・トッドのロマンス。白人男性とネイティブ・アメリカンの女性の間に生まれた娘の葛藤・・・。西部劇の幌馬車隊ものの例に漏れず、様々な人間模様が綴られていく。

特に、50年代ハリウッドに特有の「暗さ」には圧倒される。ネイティブ・アメリカンに対する徹底的な差別意識と憎悪。白人であるにもかかわらずコマンチ族に育てられたコマンチ・トッドへの人びとの視線は冷たい。保安官のブル・ハーバーは捕縛したコマンチ・トッドに水も食料も与えずに虐待する。彼らの前を通り過ぎる幌馬車隊の人びとの冷ややかな視線。中には、「今ここで縛り首にしてしまえ」と保安官に囁きかける者もいる。アパッチが襲撃してただ1人コマンチ・トッドだけが生き残った時も、「お前がアパッチを手引きしたのだろう」と責める者がいる。こうした白人共同体が持つ強烈な排除、差別、猜疑心を監督はしっかりと提示する。

それにしても、デルマー・デイヴィス監督の構図は独特である。雄大なアリゾナの荒野はグランド・キャニオンを思わせるが、デルマー・デイヴィス監督はその雄大な風景を幾度となくカメラに収める。しかも、ただワイド画面にモニュメント・バレーのような奇岩を映し出すだけでなく、カメラは常に高低差を意識する。登場人物達も常に上下の移動を繰り返し、高い崖の上からはるか地平線を見渡そうとする。その空間感覚の壮大さに圧倒される。そして奇想天外な方法によるアパッチ族の撃退。カメラは高い場所からの俯瞰ショットと低い場所から見上げるショットを交差させ、最後に、迫り来るアパッチ族がきびすを返して逃げ去るのを上から捕らえる。大きな空間の中でダイナミックに人びとを動かせ、この姿を鳥瞰するカメラで一気に捕らえてしまおうという独特の感覚が心地よい。

さらに、不思議な魅力を放つ細部。例えば、コマンチ・トッドが死の谷に入る前に食糧を求めて洞窟に入る場面。なぜか、洞窟の中には青々とした草が敷き詰められている。不審に思って洞窟に入るコマンチ・トッド。そこに巨大な鷲が飛来する。実は、この洞窟は鷲の巣だった。コマンチ・トッドは手にした鎖で鷲と戦い、打ち据えて食料品として持ち帰る。一瞬、挿入されるだけのエピソードだけど、言うまでもなく鷲はアメリカ合衆国の象徴であり、その中に迷い込んだコマンチ・トッドは白人でありながらアメリカ合衆国にとっては異邦の侵入者でしかない彼の置かれた立場を示している。この場面で、デルマー・デイヴィス監督が、コマンチ・トッドに躊躇なく鷲を殺させたところに、アメリカ合衆国という制度に対する監督の複雑な思いが感じられる。

あるいは、コマンチ・トッドに想いを寄せるジェニーが深夜1人で彼のもとを訪れる場面。お互いの気持ちが分かっているにもかかわらず2人の間には距離があり、気まずさを紛らわすために2人は唐突に家の話を始める。トッドが「俺は家には住めない。柱や窓がぎしぎしいうのが気になって眠れないのだ」というと、ジェニーは「屋根の下で安心して暮らすのは素敵じゃない」と反論する。これに対して、トッドは「コマンチのように大空の下で自由気ままに移動していくことが幸せだ」・・・と言い合いを始める。しかし、こんな話をしながらも2人の距離は徐々に近づき、気づいたらトッドはジェニーの手を取っている。そしてトッドは、ジェニーが「私には人生の計画があるのよ」という言葉を遮るように口づけする。さらにジェニーが「人生の計画を簡単に変えるわけには・・」と言うのを遮ってキスを続け、やがてジェニーも「コマンチのキスは素敵ね」と言いながらトッドの方に顔を寄せる。「人生の計画」という言葉をジェニーが口にする度にトッドがそれを遮るようにキスし、これが繰り返されるにつれて「人生計画」という言葉が徐々にかすかになって聞こえなくなる。「人生の計画」という社会的規範に捕らわれ、トッドの生き方に惹かれながらもまだ距離を感じているジェニーの気持ちの移ろいを、こうした微妙なやりとりを通じて繊細に描く監督の演出が素晴らしい。

映画は最後、一転して法廷劇で幕を閉じる。荒野の幌馬車隊の話がなぜ法廷劇に?と思って調べてみたら、監督はもともと法律家志望で、スタンフォード大学で法律を専攻していたようだ。ところが、大学時代に映画に関心を持つようになり、使い走りのアルバイトで映画界に飛び込んだとのこと。こうした背景を持っているせいか、法廷ではコマンチ・トッドがすべての者に対して法と正義を適用することを主張する。このあたりが歴史修正主義の西部劇の魅力なのかもしれない。

西部劇だけど、いろいろと考えさせられるユニークな映画でした。

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