デヴィッド・ロウリー監督「A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー」

デビッド・ローリー監督「ア・ゴースト・ストーリー」をiTunesで観る。

蓮実重彦先生が、「映画の見方」で絶賛していた作品。僕は、この作品を公開時に国際線の機内上映で観ている。でもその時は、やたらと長回しを使う監督だなというぐらいの印象しかなく、結局、最後まで観なかった。そのイメージがあったので、蓮実先生がデビッド・ローリーを評価する理由がよくわからなかったのだけど、今回、改めて見直してみて、その凄さがよくわかった。ストーリー云々の前に、照明と音響の設計がとても繊細で息を呑むような美しさなのだ。それだけで映画に引き込まれてしまう。なるほど、やはり映画はきちんと劇場で観るべきだと痛感。少なくともエコノミークラスの狭い座席で、小さなスクリーンと質の悪いイヤフォンで観ただけで(しかも格安の外国便だったので字幕なし!)、映画の評価を下すべきではない。飛行機のエンジンの轟音でセリフすらほとんど聞き取れない状態でこの映画を見ても何の意味もない。。。深く反省しました。

閑話休題。「ゴースト・ストーリー」の話。この作品は、2017年の作品。出演は、ケイシー・アフレック、ルーニー・マーラ他。ボストン映画批評家協会賞編集賞、ドーヴィル映画祭批評家賞・審査員賞、シッチェス・カタロニア国際映画祭撮影賞・審査員賞などを受賞している。余談だけど、最近、シッチェス・カタロニア国際映画祭の存在感、高まってますね。東京国際映画祭の受賞作に関心はないけれど、シッチェスならそれなりのクオリティが期待できます。

物語の舞台は、ダラス郊外。若い夫婦のC(=ケイシー・アフレック)とM(=ルーニー・マーラー)は幸せに暮らしている。Cはミュージシャンで、作曲に励む日々。Cの新曲に聞き入るM。二人は深く愛し合っている。しかし、その家には時々、不思議な物音が聞こえたり、人の気配が感じられることがある。

ある日、Cは交通事故に巻き込まれて命を落とす。病院の霊安室でCの死体を前に悲しみに暮れるM。気付いたら、CはゴーストとなってMの姿を見つめている。やがて病院の廊下の突き当たりに光の扉が開かれる。おそらくそれはこの世から死者の世界に向かう扉なのだろう。しかし、Cはあえて扉に背を向け、Mの後を追う。こうしてCは、悲しみを抱えて暮らすMに寄り添って彼女を見守り続けるゴーストとしての日々を始めることになる。

多分、多くの人は、これを読むと「ゴースト・ニューヨークの幻」のような恋愛ものをイメージするだろう。正直、僕もそう考えていた。でも、そうした観客の期待はすぐに裏切られる。映画の前半で、Mは悲しみのうちにダラス郊外の家を去ってしまい、Cは一人取り残されるのだ。その後、家には次々と新たな住人が訪れ、その姿をCはただ見守り続ける。やがてCは、長い間空き家になっている隣家にも同じようなゴーストがいることに気づく。このゴーストもまた、家の中で誰かを待ち続けているのだ。しかし、すでに長い時間が過ぎ去っており、このゴーストは、誰を待っているのかも、そもそも自分は誰だったのかも、もはや覚えてはいない。覚えているのは、ただ自分が家の中で誰かを待ち続けていると言うことだけ。。。

こうして、この作品は、死に別れた若い二人の愛の物語から、ある場所に閉じ込められたゴーストの物語へと変容する。次々と変っていく住人。時には、ゴーストのCを観ることができる子供も現れる。Cは、彼らと束の間、交感する。時には、このような宙吊りの状態にCが苛立ちを募らせ激昂することもある。手当たり次第に棚から食器を取り出して床にたたきつけるC。しかし、Cの姿を見ることができない住人にはただのポルター・ガイスト現象にしか見えない。Cの孤独は決して癒やされることはない。

やがて、家は取り壊され、一帯は再開発されて巨大なビルが建造される。それでもCは、その場所を離れることができない。やがて、Cにとっての時制は曖昧化し、その場所の記憶が流れ込み始める。アメリカ開拓時代にこの土地に入植した家族の記憶、ネイティブ・アメリカンの襲撃、宅地開発・・・。やがて、ゴーストの前にはMとCの生前の姿も登場する。果たしてCは、このような時に囚われた状態から脱出することができるのだろうか。。。。

本当に不思議な手触りを持った映画である。Cは、白いシーツをかぶったゴーストの姿で室内を歩き回るだけだ。セリフはなく、時折交わされる隣家のゴーストとの対話も字幕で処理される。それなのに、単調さは全く感じられない。むしろ、時に挿入される住人達のエピソードで交わされる会話が煩わしく感じられるほどだ。

それは、何よりもこの映画の繊細すぎる音響設計にある。例えば、一人取り残されたMを気遣って大家が届けてくれたケーキをMがキッチンに座り込んで食べる場面。カメラは決してMに寄って彼女の表情を映し出したりしようとはせず、ただフレームの中にケーキを食べ続けるMの姿を捉え続ける。聞こえてくるのは、ケーキを食べる音だけである。しかし、耳を澄ますと、そこにはMがケーキを狂ったように食べ始める直前に窓の外に目をやった時に耳にした小鳥の囀りが微かに聞こえてくることに気づく。これに、Mがケーキを取り出すときの紙袋の音、あるいはMが閉め忘れた蛇口からの水の音が加わる。長回しで描かれるこの静謐な場面は、こうしたさりげないささやかな音でリアリティを獲得する。それはまるで、愛する者の悲しみを前に何もできずにただ見守り続けるしかないCの息を詰めるような緊張感を表しているかのようだ。このように繊細な音響設計に気づけば、沈黙の場面すら豊かな音に満ちていることが分かるだろう。かすかな息づかい、あるいは家の外から漏れ聞こえる風の音。。。ただそのかそけき音に身を委ねることが心地よい。

音響だけではない。照明の設計も見事と言うしかない。特に、無人となった家の中をCが歩き回る場面の美しさ。家具などが運び去られてうつろな室内を、白いシーツをまとったゴースト姿のCが歩き回る。傾きかけた太陽の光が窓から斜めに差し込み、使い込まれた床を鈍く照らし出す。残されたレースのカーテン越しに入ってくる太陽の光は、風に揺れるカーテンにあわせて微妙に陰影を変えていく。。。ここでもまた、ただその光の移ろいに身を委ねるだけで至福の時間を過ごすことが出来る。その体験は、またゴーストとなったCが経験する長い持続と孤独の中で見いだした世界のリアリティなのかもしれない。こんな映像体験はなかなか味わうことは出来ない。

あるいは、映画中に挿入される人々の会話。ある住人は、最先端の流行を追い、毎夜、友人達を集めてパーティーを開いている。そこで、彼は不思議な芸術論を語る。彼が構想している映画では、人類の文明が崩壊した後でも、人々の集合的記憶の中にベートーベンの交響曲が鳴り響き続ける。そう、芸術は時を超えるのだ。そして、宇宙は膨張から収縮へと反転し、ついにはビッグ・バン以前の一点に凝縮される。その次のビッグ・バンでも文明は生まれ、ベートーベンの交響曲は生み出されるのだろうか・・・。彼の語りに応じて、部屋の灯りが点滅していることに人々は気づく。それは、Cの共感のメッセージなのかもしれない。

映画の中盤で提示されるこのエピソードによって、この映画のテーマが死者の生者への執着や想いなどではなく、時を巡る思索であることが明らかになる。時は、ただ単線的に進行していくのではない。Cが幽霊としてその土地で目にしたことは、過去と現在と未来が並存する姿である。ゴーストのCは、かつてMと暮らしていた頃の自分の姿を見つめる。この時空間は、単一で単線的なものではなく、複数の時制と空間が折り重なっているものなのだ。そして時は循環し、繰り返しMとの別れの場面に戻ってくるだろう。幸せそうな二人だったけれど、改めて振り返ってみれば、そこにはすれ違いがあり、伝わらなかった想いがあった。CがMのために作った曲をMはどのように聴いたのだろうか。Cは、なぜMが去った後もその家にとどまり続けるのだろうか。

映画の最後は、Cがついにある目的を達してこの世から去るところで終わる。その場面はぜひ実際に映画を観てほしい。この世界は、僕たちが考えているほどに生者と死者の境界がはっきりと分かれているわけではないのかもしれない。もしかしたら、今、僕がこのブログを書いている横で、死後の僕が、あるいは生まれる前の僕がそれを読んでいるかもしれない。しかし、今、僕がここにいると言うことは、僕がこの時空間につなぎ止められているということだ、そのつなぎを持続させるもの。それは何かを深く考えさせてくれる秘密がこの映画にはある。

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