モーリス・ピアラ監督「ヴァン・ゴッホ」
アンスティチュ・フランセ東京で開催されている「第3回映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって」で上映されたモーリス・ピアラ監督の「ヴァン・ゴッホ」を観る。1991年の作品。出演は、ジャック・デュトロン、アレクサンドラ・ロンドン、ベルナール・ル・コク他。この映画は、カンヌ映画祭やアカデミー賞の外国映画賞にノミネートされた。また、セザール賞の最優秀男優賞を受賞している。
映画は、ゴッホが自死の直前の数ヶ月を過ごしたオーヴェルの村での日々を描く。ゴッホは、自らの耳を切り落とすという事件を起こして精神病院に収容されていたが、医師の許可を得て退院し、静養のためにオーヴェルを訪れる。そこで、医師ガシェの診察を受けながら、オーヴェルの村で作品の制作に励むことになる。弟テオの資金支援を受けながら、精力的に作品を描き続けるゴッホ。
映画は、ゴッホの日々の生活を淡々と描写していくことに関心を持っているようだ。それは例えば、ガシェの娘でゴッホの作品のモデルを務めるマルグリットとの恋であり、パリから訪ねに来たテオ夫妻との食事であり、村人たちとのささやかな交流であり、あるいは娼婦たちとのどんちゃん騒ぎである。モーリス・ピアラ監督は、まるでアーチストの芸術上の苦悩などには関心がないかのように、ゴッホの日常生活を描いていく。そのリアリティが、逆にゴッホという人物が抱え込んでしまった才能と悲劇を浮き彫りにする。ドラマチックな事件は何も起きず、ただゴッホと彼をめぐる人びとの日常を提示することで、ゴッホという人の本質に迫ろうというアプローチ。そのリアリスティックな手法が斬新である。
それにしても不思議な映画である。映画に描かれるのは、男女の愛の語らいとセックス、仲間たちとのギャンブルと宴会、家族や友人達との食事、そして娼館でのどんちゃん騒ぎ・・・。人が、語らい、食事をし、酒を飲み、愛の言葉を囁き、セックスをする。特にストーリーがあるというわけではなく、劇的な場面があるわけでもない。それなのに、日々の日常を描くだけで映画になってしまう。そんなことが可能になってしまうという映画に対する確信、これこそ、まさにジャン・ルノワール以来のフランス映画の伝統ではないだろうか。その意味で、モーリス・ピアラ監督は、フランス映画の長い伝統を現代に伝える正統的なフランス映画監督なのかもしれない。
もちろん、映画ではゴッホの制作風景も描かれる。また、作品が売れないことによる苦悩や苛立ちにも言及する。さらに映画は、ゴッホが原因不明の偏頭痛によって徐々に精神的に追い詰められ、最後には支えてくれているテオ夫妻とも諍いを起こしてしまい、自暴自棄になって自死を選ぶところまで描いていく。また、晩年の傑作である小麦畑の風景などの作品を描く姿も登場する。その意味では、伝記映画としての体裁もしっかり押さえている点は強調しておきたい。
それにしても、この映画には過去のフランス絵画への深いリスペクトが感じられる。それは例えば、ロートレックが描いた娼館での交歓であり、ルノワールが描いた屋外でのダンス・パーティーであり、ドガが描いた室内での裸婦の行水であり、あるいはセザンヌが描いた男たちのカードゲームである。ああ、この場面はあの名画を意識しているな、と言う場面が何度も登場する。たぶん、それは元々画家を志していたにもかかわらず、映画監督のキャリアを追求することになったモーリス・ピアラ監督の絵画に対する想いが表現されているのかもしれない。もちろん、その中にはゴッホの数々の名画の制作場面や、実際にキャンパスの上を走って行く絵筆のタッチのアップなども含まれる。
残念ながら、僕はこれまでモーリス・ピアラ監督の作品に接する機会がなかった。2013年にアンスティチュ・フランセ東京で特集上映が開催された時には海外で暮らしていたので観る機会がなかった。映画との出会いには、こんな感じで偶然の要素が影響を与える。逆に言うと、今回、たまたまモーリス・ピアラ監督の作品に出会ったことも何か意味があるのかもしれない。「愛の記念に」、「ポリス」、「悪魔の陽の下に」などの作品も観てみよう。。。