ルネ・ラルー監督「ファンタスティック・プラネット」

BSシネマでルネ・ラルー監督の「ファンタスティック・プラネット」が放映された。1973年のフランス・アニメ映画。同年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞し、世界中のアニメ作家に影響を与えた傑作である。日本でも、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の造型や、諸星大二郎さんの作画など、影響をたどるときりがないぐらいに引用されている。日本での公開は1985年。配給はケイブルホーグ。よくまあ、こんなカルト映画を日本で公開したと思う。改めて、ケイブルホーグの偉大さを実感する。

映画の舞台は、とある惑星。その惑星は、巨大なドラーグ族が支配して独特の文明を築き、小さなオム族は原始的な生活を強いられ、ドラーグ族にペットのように飼育されていた。物語は、オム族の赤ん坊を巡って展開する。彼は母親をドラーグ族の子供に殺され、自身はテールと名付けられてドラーグ族の少女ティパのペットとして飼われることになった。しかし、オム族の成長は早く、テールはどんどん成長し、さらにティパの学習器を使うことで、どんどんとドラーグ族の高度な文明を吸収していった。ある日、テールは、学習器を持ってティパの元を逃げ出し、野生のオム族に合流する。彼らは、テールがもたらした文明によってどんどんと進化を遂げていき、やがて、オム族とドラーグ族は敵対するようになっていく。。。

今更僕が言うまでもないけれど、とにかく世界観がすごいアニメである。巨大なドラーグ族と小さなオム族が共存する不思議な惑星。そこに生息している生物も、ドラーグ族が発展させた文明も、あるいは野生のオム族が育んでいる原始的な風習も、すべてがオリジナリティに満ちている。ルネ・ラルー監督は、これまで誰も見たことがないようなクリーチャーを創造した。その造型にはシュール・リアリズム的なアート性を感じる。

面白いのは、ヒッピー・カルチャー全盛時代にふさわしく、映画のいたるところにカウンター・カルチャーの匂いも感じられる点。色彩はサイケデリックだし、ドラーグ族が行う瞑想や、幽体離脱して行うセックスはまさにヒッピーの理想郷のようなイメージ(余談だけど、肌を触れあうことなく瞑想する男女がセックスして絶頂に達するという場面は、ロジェ・ヴァディム監督・ジェーン・フォンダ主演の1968年作品「バーバレラ」を彷彿とさせる)。もちろん、男女のフリー・セックス場面もしっかり用意されている。

この映画の見方は色々あると思う。そのまま観ても面白いし、ある種の文明論的寓話として観ることも可能である。巨大なドラーグ族が、情け容赦なく小人のオム族を殺戮し、あるいはペット化する場面は、植民地支配や人種差別の批判としてみることができるだろう。

でも、ちょうど澁澤龍彦さんの「西欧芸術論集」を読み終えたばかりだったので、僕はむしろエロスと背徳の方に目が行ってしまった。澁澤さんの文章で知ったのだが、この映画の作画を担当しているローラン・トポールは「マゾヒストたち」の挿絵で著名な画家である。澁澤さん自身、彼の作品を気に入って、わざわざ作品集まで出版しているのである。

澁澤さん自身、ローラン・トポールの画集を買い求めては、自宅で客たちにこれを見せ、どのマゾヒストが一番自分に「刺さる」かを言わせて分析をしていたとのこと。悪趣味にも程があるが、当時は、ローラン・トポールというと背徳のアーチストという評価が一般的だったのだろう。

そういう目で改めてこの映画を観てみると、これはどう考えても「家畜人ヤフー」の世界だと思われてくる。大体、巨大なドラーグ族の少女ティパが、成長して青年になったオム族のテールをもてあそんだ末に、最後は一緒に横になる場面などは、非常にエロチックである。まさに家畜人にふさわしい。。。

やれやれ。澁澤さんの影響力は怖いですね。どうやら僕は、澁澤さんの隠微で背徳的な世界観に洗脳されてしまったようです。こういう浸透力のある作家は危険ですね。気をつけよう。余談ですが、ファンタスティック・プラネット、5月にリバイバル上映されるそうです。まさかとは思うけれど、決して家族連れでは観ないようにしましょう!

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