諏訪敦彦監督・構成「2/デュオ」

サンクス・シアターの視聴期限が迫ってきたので、8本の作品を選んで鑑賞する日々が続く。久し振りに良質な日本映画と向き合えて充実した時間を過ごしている。今日は、諏訪監督の「2/デュオ」。出演は、柳愛理、西島秀俊、渡辺真起子、中村久美他。1996年の作品。製作に仙道武則が入り、撮影に田村正毅が入っている。諏訪監督初の長編映画。

物語は、優(=柳愛理)と圭(=西島秀俊)の一組のカップルを巡って展開する。圭は俳優を目指しているが、なかなか仕事にありつけず、所在ない日々を送っている。優はブティックで働きながら、そんな圭を支えている。しかし、圭が仕事上でのイライラを優にぶつけるようになり、徐々に二人の関係は悪化していく。。。

こう書くと、普通の男女関係を描いた作品のように思われるかもしれないが、実際は既存の映画文法を解体するラディカルな作品となっている。

まず、この作品には脚本が存在しない。基本的なシチュエーションだけが与えられ、後は俳優がアドリブで物語を立ち上げていく。だから、諏訪敦彦のクレジットには「監督・構成」が入り、脚本のクレジットはない。セリフのクレジットとして、俳優達の名前が並ぶことになる。その上で、この映画は、2週間の撮影で、連日1日の出来事を撮り、その日の結果で翌日のシーンを決めるというスタイルを取った。このため、映画がどのような結末を迎えるかは、監督を含めて最後まで誰にも予測できなかった。

これだけでもラディカルだけど、さらに、時折、ドキュメンタリー風に俳優に対するインタビュー場面が挿入される。例えば、圭から「結婚しよう」と言われた優が対応に窮してその場を後にする場面。この場面の次には、優が働いているブティックの片隅で監督によるインタビュー場面が挿入され、なぜ結婚しようという圭に答えられなかったかを監督が優に尋ねる。これに対して、優は「分からない。でも圭に聞く必要があるね。聞き方が難しいけれど。。。」と答える。そして次の場面へとつながっていく。こうした手法を取ることで、この映画はドラマとドキュメンタリーの境界を曖昧化させ、結果的に、画面の中で展開される俳優達のアクションとセリフに深いリアリティが加えられることになる。観客は、今、目の前で展開されている言葉と動きが、演技なのかそれとも本当の感情なのか徐々に分からなくなってくる。

多分、この作品は、こうしたラディカルな演出方法を導入することで、映画の本質に分け入ろうとした作品なんだと思う。ドキュメンタリーであれ、フィクションであれ、映画はカメラの前で生起している出来事をただ記録する。この意味において、両者を区別する意味はない。ドキュメンタリーであっても、カメラの前に立った瞬間に人びとはカメラを意識するからそこにはフィクションの要素が入ってくる。逆に、フィクションにおいて、たとえ決められたセリフと演技を俳優が演じる場合でも、俳優がその空間と時間で行う行為は再現の利かない一回性の出来事であるという意味で、ドキュメンタリーの要素を持つ。どんなにセリフが練り上げられ、細かい仕草が決められ、照明やカメラ・アングルが設計されたとしても、フィルムが回り始めたときに映し出されるのは、カメラの前に生起している出来事だけであり、カメラはそれをドキュメンタリーとして記録するのだ。諏訪監督の演出は、そのような「出来事」性を極限まで追求することで、俳優のアクションとエモーションの強度と生々しさを画面に定着させようとする。さらに、意図的かどうかは分からないけれど、公園で遊ぶ子供たちの声や列車が通り過ぎる音など、様々な音が取り込まれることで、そのドキュメンタリー性が高まっていく。

おそらくこの映画の評価は人によって大きく異なると思う。毎日、撮影現場で俳優達が即興的に物語を立ち上げていくのだから、どうしても物語の展開が唐突になる。また、構成という点からは、正直、単調である。一組の若い男女の和解と葛藤の繰り返しを延々観続けることに疲れる観客もいるだろう。

さらに、即興的に物語を立ち上げるという性格上、どうしても演技が過剰になる。西島秀俊は、急に激高してものを壊し始めたり、かと思うと急に優しくなったりする。その挙動がいちいち過剰であり、一貫性に欠ける。ただ衝動的に振る舞っているように見えてしまう。これに対して、柳愛理は怯えたように人に気を遣い、西島秀俊の思いがけない感情の起伏にただ耐えて内面に鬱積を抱えて崩壊していく姿を黙々と演じ続ける。西島の演技を受ける立場上、そうなってしまうのは仕方がないかもしれないけれど、正直、観ていて辛い。

とは言え、そこには普通の映画では観られない、生々しい俳優の肉体と感情が露呈しているという実感はある。その感覚の強度が凄い。たぶん、映画館で観たらもっと強烈に観客の身体感覚に迫ってきただろう。その強度は、諏訪監督の特異な方法論が生み出したものである。

さらに、田村正毅のカメラが、この映画の閉塞感を打ち破る。狭いアパートの一室で繰りひろげられる圭と優の諍いは、即興の演技のために固定カメラで室内全体を捉えることを余儀なくされる。俳優たちがどこまで動くかあらかじめ予測できないからだ。だからどうしても室内場面は単調で平板になる。これに別のリズムを加えるのが屋外の場面。開放感のある野原で、インタビューに答える優を映した場面は、風にそよぐ彼女の長い髪や、ぶらぶらと歩き回りながら周りの野草を折り取ったりする仕草を柔らかい光の中に映し出して美しい。あるいは、自転車で疾走する優を見つけた圭が、車に乗って追いかける場面。社内に設置したカメラから圭の肩越しに、黙って自転車をこぎ続ける優の姿を映した場面は、緊迫感と躍動感に満ちている。こういう開放的で動的な場面があることで、閉塞感が払拭される。

ここにも、諏訪監督の独特の考え方が表れている。諏訪監督は、監督としてすべてを統御するのではなく、俳優の即興演技を映像化するカメラ、脚本、音響などのスタッフのアイディアを最大限に尊重しようとする。それによって、この田村正毅の屋外の場面のように、映画が多様性に向けて開かれることが可能になる。共同製作としての映画、俳優を中心にスタッフが共に考えながら立ち上げていく映画。そのプロセスそのものから生じる息づかいや関係性までが画面に反映されているからこそ、この映画は独特の魅力を発散しているのかもしれない。

この映画を機に、諏訪監督は日本とフランスを往来しながら国際的な活動を展開することになる。その意味で、この映画は画期的な作品である。しかも、諏訪監督は、この作品の方法論を次回作以降も継続し、深めていく。同じ方法論であるにもかかわらず、例えば最新作の「風の電話」は、まるで脚本のある物語映画のようにも見える。しかも、そこに提示される感情の強度は深い。諏訪監督は確実に進化している。

この映画の終わりは、二人の長い葛藤の後で、新たな関係の始まりを予感させて終わる。そこに僕は、諏訪監督の映画への愛を感じた。何度でも見直したい名作である。

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