古井由吉著「仮往生伝試文」
古井由吉「仮往生伝試文」読了。
僕は基本的に小説は電車の中でしか読まないので、新型コロナウィルスの巣ごもりが続くと、なかなか小説を読み進めることができない。結局、この本も読み終わるまでに1ヶ月以上かかってしまった。ただでさえ話の展開が読み取りにくい古井さんの著作で、その中でも極北と呼ばれている「仮往生伝試文」を、こんな途切れ途切れに読んで理解できたかというと誠に心許ない。でも、もしこの本を数日間、集中して読んだらきっと身体か精神に不調を来しただろうという予感がするのでよかったのだろう。たぶん、無意識のうちに僕の身体と意識に防衛反応が働いてこういう読み方になったような気もする。
本書は、1989年に出版された。著者あとがきでも記されているとおり、日本はバブルのまっただ中。でも、古井さんは、世間の狂騒など我関せずと言う形で、平安時代の説教集や聖伝説を読みふけり、これに想を得て、私小説とも日記とも幻想文学とも随想ともつかない散文を書き連ねていった。たぶん、古井さんの代表作のひとつと言っても良いと思う。
いつものように、物語は焦点を結ばない。平安時代の往生伝が紹介され、それに対する注釈なのか随想なのか不明な散文がそれに続き、気づいたらそうした散文を書いている作者とおぼしき人物の日常生活が日記風に綴られ、さらに突然、別の物語が立ち上がってくる。いつもの古井さんの作品世界。その文章は濃密で、容易に理解することを許さず、何かを表現すると言うよりも持続することが自己目的化しているかのように揺らぎ、ずれ、転調しながら続いていく。
もちろん、往生伝をテーマにしている以上、聖人の死が基本的なテーマとなる。平安時代、高僧も、野の聖も、あるいは市井の人々も、死後の安楽を願い、ひとえに祈り、読経を続けた。目的はひとつ。死の際に西方浄土から菩薩の迎合を受けて良き往生を遂げること。空に紫雲が流れ、いと心地よき管弦が奏される中、念仏を唱えながら菩薩に連れられて西方浄土へと旅立つことが理想の死とされた時代。その様々な説話が紹介されながら、時に近代人として、あるいは昭和の世を何とか生き延びている俗人としての解釈が続く。それだけではない。往生には、聖性と共に穢れの観念がつきまとう。宮中には穢れがあってはならず、また格の高い寺社であればあるほど境界内での死を避けようとした。僧たちは、たとえ高位の貴族に頼まれて病気平癒の祈祷を捧げていても、死が間近に迫れば穢れに触れぬよう慌てふためいて宮殿を逃れでていく。そんな姿も事細かに描かれていく。そしてそこに、作者自身の大病の経験や近親者や友人の死が重ねられる。往生というテーマだけで、これだけ世界を広げていくことができるのかと読み進めて行くにつれて呆然としてくる。もちろん、その中には怪異の物語もあれば、女との交情の物語もある。第二次世界大戦での空襲の記憶も取り上げられる。
そう、考えてみれば、この世界で人間が本当に考えるべきことなどそれほど多くないのかもしれない。往生、死、穢れ、男女の情愛・・・たぶん、それだけで何百ページにわたって物語を語り継ぐことができ、言葉を重ねていくことができる。こんなことを古井さんは言いたかったのかもしれない。とてもではないけれど、こんなブログで内容を要約したり批評めいたことを話せる作品ではないので、とりあえず、読み終えたという記録だけを残しておく。これでとりあえず古井さん追悼は終わりにしよう。たぶん、僕自身の老いや病がもう少し切実になれば、また戻ってくると思うけれど。。。。