マーク・ロスコ「シーグラム壁画」@DIC川村記念美術館

ところで、DIC川村記念美術館は、その充実したコレクションでも有名である。個人的に好きな画家で言うと、サム・フランシス、ヴォルス、ジョゼフ・コーネル、ジャクソン・ポロック、カンディンスキーなどの作品をいつでも観ることができるので貴重な美術館だと思う。特に、ヴォルスについては国際的にも有数のコレクションを誇っている。コレクションの慧眼と先見性には本当に頭が下がる。

でも、川村記念美術館の最大の魅力はマーク・ロスコの「シーグラム壁画」がある点である。英国ロンドンのテート・モダン、米国フィラデルフィアのフィリップス・コレクション、そして川村記念美術館の3カ所でしか観ることができない貴重な作品である。僕は、川村記念美術館に来る度に、この部屋でしばし瞑想の時間を過ごすことにしている。何度来ても、そして何時間滞在しても、いつもこの部屋に入ると新たな発見があり、そして自身の精神の変容を感じる。僕にとって、ロスコの作品群はアートとスピリチャルを考える上でのいわば灯台のような役割を果たしている。たぶん、僕の思考の出発点は、ロスコにある。

このことに関しては、以前のブログで詳しく書いたことがあるので、関心があればぜひ読んでみて下さい。(「ロスコ・チャペル:瞑想、祈り、対話の空間」「フィリップス・コレクションの名品たち」「トニー賞演劇部門で6つの賞を獲得した『レッド』はマーク・ロスコの苦悩を描いた秀作である」「ロスコとポラック、2つの死が意味するもの」)

僕は、今回もシーグラム壁画の部屋でしばらく時間を過ごした。それぞれの絵の前にしばらく佇み、ロスコが指示しているように自分の視界いっぱいに絵が入るぐらいまで近づいてみる。絵を鑑賞すると言うよりも、視界を覆う色彩と形態をただ感じる感じ。そうやって一枚一枚の作品を辿っていく。それから中央に設置されたソファに座って部屋全体を見渡してみる。一枚の作品とは違って、視界の中に複数の作品が並ぶ。その配置や構成、組み合わせを感じる。そうすると、奇妙な感覚が湧き上がってくる。シーグラム壁画として並べられた作品は8作品。基本的には深いえんじ色に少し明るい赤や黒が入るのが基本である。しかし、一枚だけ、暗緑色の入った小ぶりの作品がある。この小さな絵は何を表しているのだろうか、とふと思う。そして、唐突にこの作品が超越者としての神を表しているのではないかと感じる。そうすると、この暗緑色の絵が従える7枚の作品は何を表しているのだろうか。僕の頭にまず浮かび上がってくる言葉は、「境界」であり「門」であり「入り口」であり、「裂け目」である。それぞれの絵の前に佇んでいる時に感じる、何者か絵の背後から立ち現れてくるよう感覚。それが残っているからこういう言葉が出てくるのだろう。その立ち現れてくるものは、決して明確な形を取らない。ただ、それぞれの壁画が持っている平面と方形の色彩の乱舞の中でかすかに感じ取られる何か、でしかない。

「色彩の乱舞」と言う言葉を僕は使った。多分、ロスコの原画を見たことがある人であれば、この言葉を奇異に感じるに違いない。サム・フランシスのようなウェスト・コースト的な明るい色彩の乱舞や、あるいはジャクソン・ポロック的なリズミカルな身体性が躍動する色彩の折り重ねならともかく、あれほど単純で鈍重とも言えるロスコの作品に「色彩の乱舞」という言葉はそぐわないのではないか。誰もがそう考えるに違いない。

しかし、シーグラム壁画の部屋にしばらく佇み、瞑想するかのように静かにその作品の色彩を感じていると、その言葉が突飛なものではないように感じられてくるのだ。それは、実際、照明を少し落とした部屋の中でロスコの作品群をじっと見つめていると、徐々に目が慣れてくるという生理的現象もあるだろう。さらに、ただ黙想するかのように精神を鎮めていくことでかえって開かれてくる感覚というものもある。シーグラム壁画は、ただ、ぐるっと部屋を一巡して作品を観るだけの通過場所ではない。本当に作品の価値を理解するためには、その部屋にしばらくとどまり、作品と対話しなければならない。

実際、こうして時間をかけて絵と対峙していると、ロスコの平面的な絵画がいかに奥行きに満ち、そして微妙な色彩の変化を持っているかが見えてくる。彼の作品には決して幾何学的な境界は現れない。方形も直方体もその境界は常に揺らいでいる。それはまるで炎がくすぶっているかのようだ。そして平面も単純にある色で塗り固められているのではなく、その中に微妙な色調が折り重なっていることがわかる。しばらくその微妙な色調の推移を見つめていると、自分が観ているのは平面ではなく、何か濃い色彩に覆われた霧の前にいるような錯覚に襲われる。とすると、四角で覆われた方形の窓の向こうに見えるのは平面ではなく色彩を持った空気なのかもしれない。だとすると、何者かが立ち現れてくる感覚も理解できる。平面ではなく、濃い霧であれば、その背後に深い空間があってもおかしくないし、そこからなにかが顕現することは十分にあり得ることだ。

では、何がそこから登場するのだろうか。そもそも、ひとつだけ異なる暗緑色の絵は、他の絵の空間から何を召喚しようとしているのだろうか。空想はさらに広がっていく。暗緑色の絵の向かい側に設置された巨大な壁画だけに、なぜか黒の方形が描かれているのだ。その黒はある種のまがまがしさを感じさせる黒である。他の絵の方形が、赤と同系統の色が使われているだけに、この黒の存在感が際立つ。暗緑色の絵に対峙する黒の方形の禍々しい絵。この対立は一体何なのだろうか。。。。

これはもちろん、僕の個人的な印象でしかない。他の人は別の感じ方をするだろう。あるいは、何も感じないと言うことも大いにあり得る。そもそも、僕自身が、次にこのシーグラム壁画を訪れた時に、今回と同じように感じるとは思えない。その意味で、ロスこの絵を鑑賞すると言うことは、常に一回限りの出来事なのである。でも、その一回性において、なぜか超越的な神との対話の方向へと思考が誘われてしまう。それがロスコの作品のユニークな点なのかもしれない。今回も良い時間を過ごすことが出来た。次はいつ、この部屋と再会することになるのだろうか。。。。

英国テート・モダンの「シーグラム壁画」
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