S・クレイグ・ザラー監督「ブルータル・ジャスティス」

最近、色々なところで取り上げられているS・クレイグ・ザラー監督の「ブルータル・ジャスティス」をレンタルで観る。

この監督は、「暴力の伝道師」という異名で知られる。実際、これまでのラインナップを見ると「トマホーク ガンマンvs食人族」、「デンジャラス・プリズンー牢獄の処刑人ー」と刺激的なタイトルが並ぶ。予告編を覗いても、結構、強烈な映像がある。また、PC(Political Correctness)に逆らった場面をあえて導入したりする。この映画を観るまでは、正直、タランティーノ監督の亜流のような作品だと想像していた。しかし、実際に観てみると、全然スタイルが違う。

確かに過激な暴力シーンはある。しかし、これ見よがしの殺戮場面ではなく、ただリアルな痛みを感じさせる演出だ。多分、現実の殺人や強盗はこんな風に乾いた感じで行われ、ただ無意味に血が流され、身体が毀損されるのだろうなと感じさせる。そこにごろんと提示される暴力。何の感情もなく、人が人を殺してしまう無気味さがそこにある。

物語は、ベテラン刑事ブレット(=メル・ギブソン!)と相棒のトニー(=ヴィンス・ヴォーン)を軸に展開する。ブレットはもうすぐ60歳になる。同期の刑事達はとっくの昔に管理職になっているのに、彼はいまだ20歳も年下のトニーと共に張り込みをする現場の刑事だ。ある時、ブレットはヒスパニッシュの麻薬密売人を逮捕するが、ブレットの行き過ぎた捕縛場面を密かに隣人が撮影しており、そのビデオがテレビで流されたためにブレットはトニーと共に6週間の停職を命じられる。

実は、ブレットの妻は多発的硬化症で職を辞し、治療中だった。さらに、ブレットの住んでいる地域は最近急速に治安が悪化しており、高校生の娘が過去2年間に5度も通学途上、黒人のストリート・ギャングに襲われていた。妻の治療と引越のために、ブレットには金が必要だった。

そんな中、ブレットは、でかいヤマが動きそうだという情報を手にする。麻薬密売人の取引なら、彼らから金を強奪すれば良いと考えたブレットは、トニーに声をかけてターゲットの監視・尾行をはじめる。しかし、このヤマは思わぬ方向に向かうのだった。。。。

映画の第一印象は、最近、流行の「ブルシット・ジョブ」に従事するプアホワイトの悲哀である。真面目に刑事を務め、検挙率も高いのに27歳のポストと同じで昇進も昇給もわずかだというブレット。彼は、身体を張って街の安全に貢献してきたのに、その見返りは寒い路上で震えながらひたすら張り込みを続けるという辛い生活でしかない(ちなみに、この映画の原題は、「Dragged Across Concrete:コンクリート上を引きずり回されて」。タイトル通り、ストリートで張り込みを続ける二人の刑事の姿が延々と映し出される。)。この老いさらばえた刑事をメル・ギブソンが演じるので説得力がある。彼のファンは、そこにリーサル・ウェッポンのマーチンのなれの果ても投影するだろう。

ただ、それだけであればザラー監督がこれだけ注目されることはない。彼の映画には、こうした社会的メッセージだけに止まらない独特のスタイルがあり、それが映画好きの関心を集めているのだ。

例えば、登場人物の描き方。普通のハリウッド映画では、まずある人物が提示され、その人物の社会的地位や性格が説明されるだろう。新たな人物が登場する時も、同じように状況説明がなされるか、あるいは既に登場している人物との関係性が提示されることで、観客は違和感なく映画の世界に入ることができる。こうすることで、ハリウッド映画は、観客がただ物語と画面を追っていけば良いようにできている。それが、商品としてのハリウッド映画の語りのエコノミーであり、透明性である。

しかし、ザラー監督は、こうしたハリウッド映画の通常の語りの形態を取らない。例えば、この映画の冒頭は、男女のセックスシーンから始まる。しかし、この男が誰で、女とどういう関係にあるのかはなかなか見えてこない。会話から、どうやら男はこの女と学校で一緒だったようだということが分かるだけである。長い時間が経ってようやく、男は刑務所を出所したばかりで、迎えに来た相棒が出所祝いとして男が学校時代に好意を持っていた女で今は娼婦となった女を用意してやったことが分かる。しかし、それが分かるまでの間、観客は宙ぶらりんの状態に置かれてただセックス場面を観ることを強いられる。

同様の演出は、ブレットとトニーの登場の際にも、あるいはブレットの娘が街で襲われる場面でも繰り返される。さらに、その後、ブレット達が追いかけていた「ヤマ」に巻き込まれて人質となるケリーの登場の場面でも同じ演出がなされる。ケリーはそれまでの話の流れと全く関係なく唐突に登場し、いきなりバス停から自宅に戻ってチェーンのかかった扉越しに赤ん坊の足のにおいを嗅ぐのだ。彼女が、実は銀行員で産休明けの出勤日であるにもかかわらず、赤ん坊から離れられないという状況が分かるまで、観客は一体何が起こっているのか理解できないまま、ケリーの不可解な行動を見守ることになる。

これは一体どう云うことだろう?あえて何の情報も提示せずに人物を登場させて観客を混乱させ、物語の流れを寸断する演出に、一体どういう意図が隠されているのだろう?色々な解釈が可能だと思うけれど、僕が感じたのは、このような描き方を通じて観客は確実にこの世界がはらむ本質的な不安感や不確実性を体験するだろうと言うことである。何の説明もなくいきなり人物が登場し、その人物が常軌を逸した行動を取る。観客はただその意味を理解することなしに見つめ続けることを強いられる。その過程で、観客は何とかその行動を理解し、自分たちの日常生活の延長線上で理解しようとするだろう。しかし、その努力はなかなか焦点を結ばず、状況を理解するまで観客は宙ぶらりんの状態に置かれる。

しかも、登場人物達は、一様に何かに怯え、あるいは不安感を抱えているのだ。そこに、ザラー監督の現代を見る視点を感じる。現代社会は、特にザラー監督が描くブルシット・ジョブに従事する者たちは、日常的にこのような不安定な状態に置かれているのだ。それは、街を歩いていたらいきなり襲われることかもしれないし、あるいは真面目に働いていたのにある日突然解雇を言い渡されて途方に暮れるということかもしれない。そうした不安定さをザラー監督は、実際に観客に追体験させようとしているのだろう。

同様の演出は、この映画に特徴的な長い待機にも見られる。ターゲットの監視を延々と続けるブレットとトニー。あるいは、ヤマを成功させて現場から逃れて延々と逃走車を運転するビスケットとヘンリー。不安感で宙づりにされた状態での長い待機の時間を、彼らは無駄口を叩いてやり過ごそうとする。しかし、死と暴力、あるいは失敗による社会的転落や貧困の可能性が、確実に彼らの背後に控えている。そのリアルな重みがこの映画の魅力の一つとなっている。

こういう風に書いていくと、なんだかとても重苦しく、停滞した映画のように思われるかもしれない。しかし、随所に挿入される犯罪場面の強度や家族とのひとときの団らん風景の和やかさが、長い停滞の時間にもかかわらず、全体としてこの映画のリズムを活気づける。そもそも、一つ一つの場面の印象が強いので緊張感が途絶えることがない。これはすごい才能だと思う。

そして、素晴らしいカメラワーク。映画の後半は、深い闇の中での追跡と銃撃戦になる。そして決着がつき、生き残った者たちが帰還する車を取り囲む淡い薄明の光。そして霧。血塗られた一夜が明け、生き残った者たちが死者を追悼する。その姿の静謐さが心を打つ。

冒頭でも紹介したように、ザラー監督は「暴力の伝道師」として売り出され、PCをわきまえない過激な場面が特徴だと言われる。しかし、実際は、この世界の理不尽さと不確実さの中で、なんとか愛する者たちを幸せにしようと苦闘する者たちの真摯な姿が描かれる。とても誠実な映画だと思う。

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