マーティン・スコセッシ監督「レイジング・ブル」
マーティン・スコセッシ監督「レイジング・ブル」を見る。以前のブログでスコセッシ監督の「ハスラー2」がつまらないと書いたので、もしかして傑作の誉れ高い「レイジング・ブル」を見たら少しは見直せるかと期待する。
「レイジング・ブル」は1980年公開作品。ロバート・デ・ニーロ主演。脚本にポール・シュレイダーが入り、「タクシー・ドライバー」のチーム復活が復活した。公開時の評価は高く、アカデミー賞主演男優賞/編集賞、全米映画批評家協会賞監督賞/助演男優賞/撮影賞、ニューヨーク映画批評家協会賞男優賞/助演男優賞、ゴールデン・グローブ賞主演男優賞など多くの賞を獲得している。
映画は、伝説のボクシング・ミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタ(=ロバート・デ・ニーロ)を巡って展開する。ラモッタは、ニューヨーク市ブロンクス出身の実在の人物で、そのアグレッシブなファイティング・スタイルから「レイジング・ブル(怒れる雄牛)」の異名を持つ。1941年から引退する1954年まで13年間リングに立ち続けた。引退後は、バーを経営してコメディアンに転身。映画にも出演したとのこと。また、1958年には未成年の少女を男性客に紹介したとして6ヶ月服役している。
映画は、ラモッタの人生をほぼ忠実に描いていく。公開当時、話題になったのはロバート・デ・ニーロの役作り。チャンピオンに上り詰めた際の引き締まった肉体から、引退後のコメディアン生活までを一人で演ずるため、映画製作期間中に過激な減量を行い、その後27キロも増量したとの伝説が残っている。実際、引退後の場面で、デニーロはこれ見よがしに出た腹を見せていた。
映画のテーマは、ラモッタの常軌を逸した人物像。ボクシングの才能があり、どんなに打たれても倒れない強靱な肉体を誇った彼は、誇りが高く、チャンピオン・マッチを行うために八百長試合をマフィアから持ちかけられても、なかなか首を縦に振らない頑固な人物でもある。結局、最後はチャンピオン戦のために格下の相手に負けてやるが、露骨にガードを下げ、相手に打たせ続けても決してノックダウンされないという形で意地を見せる。
これ以上に異常なのが、女性関係。妻子がある身でありながら14歳の少女ビッキーに惚れ込んで付き合い始め、結局、結婚する。しかし、ラモッタは、猜疑心が強く、ビッキーが他の男や弟と寝ているのではないかと疑いはじめ、挙げ句の果てにはビッキーを殴ってしまう。この常軌を逸した嫉妬と独占欲の強い男を、デ・ニーロが濃厚に演じる。この演技(と常識外れの体重の増減量)で、デ・ニーロはアカデミー主演男優賞の栄冠に輝いた。
確かによくできた映画である。モノクロームの画面は美しい。冒頭、ラモッタが7回もダウンを奪ったにもかかわらず不公平な判定で初めて敗れ、観客が騒ぎを起こす場面。リング上にものが投げ込まれ、観客席では乱闘騒ぎが始まる。難を避けようと人々が逃げ惑い、倒れた女性が群衆に踏みつけにされる。画面いっぱいに不定形の肉体が蠢き合い、一種異様な雰囲気となる。こういうところはうまい。
あるいは、ボクシングの試合。同時期のロッキー・シリーズとは異なり、BGMもなければこれ見よがしのスロー・モーションもない。作りはストイックだが、見事なカットつなぎと、ただパンチの音とボクサーの息づかいだけが聞こえる効果音が素晴らしい臨場感をもたらしている。数あるボクシング映画の中でも、この試合の場面は本当に素晴らしいできばえ。
さらに、スコセッシ監督は宗教的アイコンをさりげなく画面にちらばめる。ラモッタがビッキーと逢い引きする部屋の壁にはキリスト教のイコンが掛けられており、結婚後の二人の寝室には十字架が据え付けられている。ビッキーに暴力を振るってしまった後にリングに立ったラモッタは、宿敵のシュガー・レイ・ロビンソンと対戦するが、一方的に打たれまくり、ついに13ラウンドでTKOを宣告される。何度打たれてもダウンせずに立ち続けるラモッタの姿は殉教者を思わせ、その前に立ちはだかりグラブを高々と上げるロビンソンは、まるでラモッタの罪を罰する天使のようにも見える。
こう書いてくると、傑作のように思われるかも知れないが、なぜかスコセッシ監督の演出はちぐはぐである。デ・ニーロの演技はリアリティがあるけれど、単調で面白みに欠ける。ラモッタがなぜ偏執狂的にビッキーに嫉妬したのかもよく分からない。単にそういう人だったことが提示されるだけである。これではどんなに映像が素晴らしくても、役者がどれだけリアリティのある演技をしても映画にならない。せっかく、ポール・シュレイダーが象徴的な台詞を練り上げても、最終的にこれを一つの作品にまとめる演出がなければ単発の名台詞にしかならない。映画の最後に、聖書が引用されるが、とってつけたようで映画の内容とのつながりもよく分からない。ここまで来ると、やはりスコセッシ監督に根本的な問題があると言わざるを得ないのではないだろうか。。。やはり映画って難しい。