奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」
再び、アップリンク渋谷の「見逃した映画特集2019」へ。おそらく、昨年、シネフィルの間で最も話題を読んだ作品の一つである奥山監督の「僕はイエス様が嫌い」を観にいく。何しろ、この作品、監督初の長編映画なのに、いきなりサン・セバスチャン国際映画祭の最優秀新人監督賞を受賞。その後も、ストックホルム国際映画祭、ダブリン国際映画祭でも受賞し、堂々とTOHOシネマズ系列で全国ロードショー公開となったのだから、話題性は十分。しかも、奥山監督は、撮影、脚本、編集もこなす多才ぶりである。
お話は、ユラという一人の少年が、両親に連れられて北海道の祖父母の家を訪れるところから始まる。祖父が亡くなり、一人で暮らす祖母と一緒に暮らすため、一家は東京から北海道の小さな町に引っ越してきた。ユラは、その町の小さなミッション・スクールに編入することになる。キリスト教のことなど何も知らないユラは、いきなり朝の礼拝に面食らうけれど、神様の話を聞いて、自分も「友達ができますように!」と祈ってみる。すると、突然、ミニチュアのようなキリストが登場し、サイケデリックな聖歌と共に天へと上がっていく。願いはかなえられ、一馬という親友ができるユラ。こうして、ユラと一馬と、ユラにしか見えないキリストの物語が始まる。。。
この映画の魅力は、何と言ってもまずキリストのキャラクター。神様なのに、回転するレコードの上でランニングしたり、湯船に浮かぶアヒルちゃんに乗ってサーフィンしたり、挙げ句の果てにはユラにつきあってトントン相撲で札束を折って作った紙の力士と組み合ったり、、、ととてもお茶目なのである。しかも、律儀にユラの願いをかなえてくれる。ただし、その叶え方は少々せこい。お金が欲しいと願っても、たかだかお祖父さんがへそくりに隠していた1000円札が見つかるぐらい。でも、おかげでユラは新しい生活に慣れ、一馬との友情を育んでいく。しかし、突然、ある悲劇が訪れる。神様は、ユラの悲痛な願いを聞き届けてくれるのだろうか。。。
こんな形で書いていくと、誰もが心温まるけれどほろ苦いファンタジーを思い浮かべるだろう。実際、映画は、淡々と物語を紡いでいく。それは、悲劇がおきてからも変わらない。神様の登場も、その沈黙も、大上段に振りかざした信仰をめぐる問いへとつながるわけではない。
でも、奥山監督はそこにひっそりと謎めいた仕掛けを組み入れる。それによって、物語はとても豊かな相貌を帯びることになる。
例えば、お祖母さんとユラが二人で仏壇を覗きこむ場面。まるで仏壇の中から見返したように、二人の姿が捉え返される。二度繰り返されることで、この画面は不思議な違和感を残している。このカメラの視線は誰のものだろう?
あるいは、亡くなったお祖父さんが、毎日、障子に穴を開けて覗き込んでいたというエピソード。ユラが理由をお祖母さんに尋ねてもお祖父さんが何を覗いていたかはわからない。柔らかな光に包まれた穴だらけの障子が不思議な余韻を残す。お祖父さんは、障子の穴から何を見ていたのだろう?
あるいは、ユラと一馬が二人で流星群を観に夜の町に繰り出す場面。曇っていて流星群が見えない二人は、夜の学校に忍び込む。突然、窓の外に降りしきるように浮かび上がる流星群に歓声を上げる二人。でも、彼らは本当に流星群を目にしたのだろうか?
そして、二人が山の上の神社で願い事をする場面。何を願ったのと聞かれて、一馬は「今日のサッカーの試合でできるだけ多く点が取れますようにって願ったのさ。ユラは何を願ったの。」という。しかし、ユラは、「願い事を口にしてしまうと願いが叶わないから」と言って、一馬の質問に答えない。果たして、ユラは何を願ったのだろうか?
こんな風に幾つかの謎が積み重なっていく中で、物語は終幕を迎える。最後の場面は、ユラがきれいに紙を貼り直した障子に穴を開け、覗きこむことから始まる。ユラは、その穴の中に何を見たのか。その視点は果たして誰の視点だったのか。慎ましやかとしか言いようのない一連のショットから浮かび上がるのは、映画そのものが孕む超越性の可能性である。決して声高ではないけれど、監督はそこで確かに、映画という持続が、複数の時空を横断しうる超越性を志向することができる稀有な体験であることを提示している。そこでは、言葉と映像と音楽が反響しながら、時空の可塑性に介入し、絶えず過去・現在・未来を更新しているのだ。それはまさに神の視点ではないのか。。。
いやはや、すごい才能が登場したものである。次は一体どんな作品を見せてくれるのだろうか。早くも次回作が待ち遠しい。