多和田葉子「百年の散歩」

気になっていた多和田葉子さんの「百年の散歩」が文庫になったので、早速、購入。多和田葉子さんの作品は、「犬婿入り」から「ヒナギクのお茶の場合」「容疑者の夜行列車」「光とゼラチンのライプッヒ」「球形時間」くらいまで追っかけたんだけど、その後、しばらく挫折していた。理由は、単純に忙しくなって読書量が減ったから。

でも、去年、「献灯使」が文庫化されて久しぶりに読んだら面白かったので、また復活した。こうしてみると、僕の読書はなんだか友達付き合いに似ている。しばらく音沙汰になっていた人と、ふとしたきっかけで再会してまた親交を温めると言う感じ。年取ってくると、新しい作家を開拓するより、旧交を復活させる方が楽というのもある。

百年の散歩」は、主人公の女性(ドイツ在住、物書きの日本人女性と言う設定だけど、作家本人かどうかはもちろんわからない)が、彼氏との待ち合わせのためにベルリンのいろいろなストリートを彷徨すると言うお話。彼氏は、まるでゴドーのように決して現れない。そもそも、本当に彼氏は存在するのかと言うのも定かではない。でも、主人公は、とても彼氏のことが好きで、いじらしいまでに会うのを楽しみにしている。

もちろん、多和田さんの作品がそんな単純な純愛物で終わるわけがない。「百年の散歩」の各章には、それぞれ「カント通り」とか「カール・マルクス通り」とか、歴史上の人物にちなんだ通りの名前が冠されていて、主人公はその通りを彷徨いながら、彼氏と待ち合わせするという設定。主人公は、彼氏を待つ間に通りを散歩するのだけれど、そこで時空を超えて様々な人たちに出会い、あるいは事件を目撃する。。。それはまるで、マルケスの「百年の孤独」のように、過去の人物たちが現在に侵入してくる語りとなる。

話が飛ぶけれど、僕は、基本的に電車の中で文庫を読むと言うのが基本的な読書スタイルで、しかもあまり注意深い読者ではない。結構、ぼんやりと字面を追っているだけのこともある。こういううろんな読者には、この作品は少々厳しい。数行で、いきなり百年前の人たちと会話していたり、一瞬で別の世界に飛んでいたりするので、正直、話についていけなくなることがしばしば。

しかも、今回も言葉遊びの嵐。冒頭から、「わたしは黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。」とはじまる。「奇異茶店」と「喫茶店」ね。文学だから許されるけど、これ、下手するとただのおやじギャクだよ。。。。とぶつぶつ文句を言いながら読み進めるので、さらにお話から置いてけぼりにされてしまう。。。

ということで、今回は、少々、読み終わるのに時間がかかってしまった。多分、もう少しじっくり腰を据えて読んだらもっと面白かったのかもしれないけれど、読後感はなんだかぼんやりしていると言うのが正直なところ。それに、文章がどうもぶつぶつと切れて流れていかないところがとても気になる。多分、辞書をこまめに引きながら書いているんだろうなと思わせる豊潤な言葉遊びなんだけど、それがネックになって文章から流麗さが失われている感じ。多和田さんに言わせれば、小説は言葉の具体的な手触りにあるのだからそれでよいのだろうけれど、通勤時間帯しか読書時間が取れないふつーの人には、これはちょっときついかも。

とはいえ、現在の日本社会が、歴史を忘却し、安易にアニメなどで戦闘女子キャラを蔓延させて、右傾化に向かっていることに多和田さんが危機感を感じていることだけは伝わりました。ドイツ在住の多和田さんだから、きちんと歴史と向き合おうとするドイツと、曖昧に忘却しようと言う日本の違いをどうしても考えてしまうんだろうな。

印象に残った章は、やはり女性を描いた部分。ローザ・ルクセンブルグの颯爽とした女性革命家の肖像は気持ちがいい。逆に、ケート・コルヴィッツの、息子を戦争にやってしまった母の強烈な悔恨の想いを描いた部分も深く共鳴できる。男じゃないけど、マヤコフスキーリングの三角関係のエピソードもリズム感があってよかった。他の章も、多和田さんの該博な歴史、文学、芸術、思想、哲学の素養を縦横に駆使した内容で、知的にもスリリングなものになっていました。

またいつか落ち着いたら読み返してみよう。

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