モーリス・ブランショ「明かしえぬ共同体」

諏訪敦彦監督の新作「風の電話」公開を記念して、某大型書店で諏訪監督推薦図書コーナーが開設されていたのに遭遇し、つい「明かしえぬ共同体」を衝動買いしてしまった。同時に購入したのが、諏訪監督の「誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために」と、エマニュエル・レヴィナスの「われわれのあいだで:《他者に向けて思考すること》をめぐる試論」の2冊。これ以外にも、ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの詩学」など、思考を刺激する本が平積みになっていた。やっぱり諏訪監督、かっこいいですよね。

ブランショについては、高校生の時に背伸びして購入した「文学空間」に挫折し、「マルラメ論」「カフカ論」は購入したまま積読で今に至るということで、苦い思い出しかない。でも、何度かの引越し(海外赴任も含む!)でも捨てずに置いたところを見ると、やはり心惹かれるものがあったんだろう。彼の思索の意味が理解できるようになるまでには、それなりの経験と思考の深まりが必要だったということか。今回は、どちらかというとブランショの思考を追いたいというよりも、諏訪敦彦監督の頭の中を覗き込みたいという気持ちが強くて、途中で挫折せずなんとか読了しました。

とは言え、本書の内容を理解したとはとても胸を張って言えません。単に字面を追って、巻末までたどり着いたというのが正直なところです。内容が難しいということもあるけれど、西谷修さんの巻末の長い解説を読んで、そもそも、この本だけを読んで内容を理解しようということに無理があることに気がついた。本書は、バタイユの1930年代の一連のテキストと、デュラスの「死の病」をテーマに書かれた論考であり、そのベースにはジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」の議論があるとのこと。バタイユの「内的体験」も「呪われた部分」も途中で挫折し、デュラスもナンシーも読んでいない私が、いきなりこの本を読んで理解できるわけがないのだ!と妙なところで納得してしまった。

と言うわけで、以下は本当に小学生の感想文レベルのものである(というと、今時の小学生に失礼になるかもしれないけど)、という前提で読んで欲しい。

本書は、二つの章からなる。第1章は、バタイユをテーマにした「否定的共同体」。第2章は、デュラスをテーマにした「恋人たちの共同体」。

否定的共同体とは、他人を必要とせず、他人との関わりを断ちたいと願う孤独な個人が集まったときに、なおかつそこに共同体が成立するかという問いをめぐる考察である。ブランショ自身は、68年革命で喧伝された共産主義、コミュニオン、あるいは融合体験の挫折から出発し、このような挫折の後に共同体は可能なのかという問題意識を持っているようだ。そこから、彼はバタイユの否定的共同体、「共同体を持たない人びとの共同体」について考察を深めていく。そして、「コミュニケーションの基礎」とは何かという問いに到達する。それは

おのれを死にさらすこと、それも自分自身の死ではなく、他人の死に、その生々しい至近の現前そのものがすでにして永遠のものであり、いかなる喪の営みも和らげることのできない耐え難い不在であるような他人の死におのれをさらすことである。そしてこの他人の不在は、生そのもののうちにあって出会われるべきものである。この不在ーーいつもあらかじめの消滅に脅かされているこの異様な現前ーーとともに友愛は戯れ、そして一瞬ごとに消滅してゆく。それは関係のない関係、あるいは無際限な関係以外の関係を持たない関係である。私たち自身がそうである未知のものを露呈させ、厳密に言って私たちが自分ひとりでは体験することのできない私たち自身の孤独との出会いを顕現する、友愛とはそうしたものである。

こうして、ブランショは、共同体体験の究極的な形態へと思考を巡らすことになる。それは、68年革命が顕揚したような個人が共同体に回収されてしまう一過的な狂騒ではなく、徹底的に孤独な個人が他者や共同体を否定し尽くした後にそれでも他人の不在を通して感知してしまう何ものかなのである。

こういう思考は厳しく辛いものだろうと思う。私のような凡人にはとても理解し難いものだ。しかし、1930年代に全体主義を目指す右翼思想に加担し、第二次世界大戦後はそれを封印して文学と思想に内向していったブランシュのような知識人にとっては、これがまさに共同体のリアリティだったんだろうということは理解できる。寂しい世界だが、ブランショがこの世界に「友愛」という言葉を投げかけている点に救いがあるような気がする。

それに、こうした共同体は、もしかしたら、現代という時代にまさに当てはまるものなのかもしれない。日々、スマホに溺れ、恋人とのデートの際にも会話ではなくスマホを覗き込んでいるカップルの姿を目にすると、なぜか「共同体を持たない人の共同体」というブランショの言葉が引っかかってくるのである。現在の日本社会を見たら、ブランショはどのような思考を展開したのだろうか。

恋人たちの共同体では、ブランショはデュラスのテキストに沿って思考を展開する。それは、理解することも自分の思い通りにすることもできない決定的な他者としての「彼女」をめぐる思索である。この共同体は、唐突に始まり、偶然がなせるままに唐突に終わりを告げる。ここでもまた、共同体は幸福の片鱗すら見せない。ブランショは、謎めいた言葉を書き記す。

それは明かしえないことなのだ、彼はみずらの意思によって死と一体化し、彼女にもまた、彼女が待ち望み彼がそれまで与えることのできなかった死を与え、そうして彼はおのれの地上の定めをまっとうしたのだ、とーーただ、それが現実の死であるか想像上の死であるかは問題ではない。死は、共同体の運命に書き込まれたつねに不確かな終末を、一種はぐらかすかのようにして永遠に確立するのである。

「明かしえぬ共同体」。みな、共同体について語り、経験し、帰属することができると錯覚しているけれど、ブランショの思考は、いつものようにその限界を露呈させ、語りえない世界へとわれわれを導いていく。これがブランショの魅力だろう。そして、諏訪敦彦監督が、繰り返し描く人と人との分かり合えなさ、決定的に理解不能な存在として立ち現れる他者の姿の背景には、こうしたブランショ的な思考が脈打っているのである。

ああ、また「デュオ」や「不完全なふたり」を見直したくなった。

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