古井由吉を巡って

古井由吉さんが亡くなった。内向の世代を代表する作家で、多くの作品を残した人の死を僕はまだうまく受け止められずにいる。改めて、彼の著作リストを眺めてみる。多分、僕は作品の3分の1たらずしか読んでないし、随筆・評論に至っては皆無だ。そういう意味で、僕はあまり良い読者ではなかったのだろう。気になる作家ではあったけれど、読んでもほとんど歯が立たないという諦めも半ばあって、本屋で書棚から取り出して眺めてはまた元に戻すということを繰り返してきたような気がする。でも、亡くなったという報に接すると、もっと彼の作品を読んでおけばよかったという想いがつのってくる。

最初に読んだ古井由吉さんの作品は、例に漏れず「杏子・妻隠」である。僕の手元に、まだ1983年発行の新潮文庫第8刷が残っている。大学生の頃に読んだのだろう。あの頃は、とにかく自由に自分が読みたい小説を購入できるのが嬉しくて、片っ端から気になった作品を読んでいた。たぶん、古井由吉さんも、芥川賞受賞で内向の世代の代表的な作家、というだけで飛びついたと思う。でも、どんな感想を持ったのか記憶は全くない。

むしろ、記憶に強く残っているのは、その後に購入した「水」である。こちらも、僕の手元にあるのは1980年発行の集英社文庫第1刷。たぶん、「杏子・妻隠」と同時期に読んだはずである。この本が記憶に残っているのは、「水」を読んだ後に、熱を出して寝込んだからだ。当時付き合っていた女の子が見舞いに来てくれたので、僕は、「水」を読んでいるとそのうねるように続く文章世界に引きずり込まれるようで、気がついたら時間が経つのも忘れて読み耽ってしまい、読み終わったら急に何かに憑かれたように高熱が出て寝込んでしまったという趣旨の話をした。これを聞いて、彼女はとても真剣に心配そうな顔をしてまじまじと僕の顔を見つめたのを今でも覚えている。たぶん、たかが小説如きに心身喪失の状態になるような危うさを秘めた人間と付き合っていることに一抹の不安も感じたのだろう。そんな風に感覚を鋭敏にするのは身体にも精神にも良くないと繰り返し噛んで含めるように説き聞かせる姿が、熱で朦朧とした僕にはとても奇妙な存在に見えた。

それから既に30年以上が過ぎた。大学生の頃に付き合っていた彼女とはとっくの昔に別れて、今は何の消息もない。結婚して子供ができたという話を聞いたけど、もうその子供たちも成人しただろう。僕の方も、仕事で何度か海外に赴任したり、転職したりと、それなりの人生を過ごしてきた。普通は社会人になると小説から離れてしまうもので、僕も例に漏れず、一時は司馬遼太郎や保阪正康の歴史物を読み耽った時期もあったが、結局、小説にもどってきた。考えてみれば、小説との付き合いは小学校以来だからそんなに簡単に人間は変わらないものだと思う。

そんな中で、古井由吉は、それなりに僕にとって重要な作家の一人であり続けたと思う。彼の作品を手に取る時というのは、とにかく文学らしい文学を読みたいとき、物語やテーマなど関係なく、ただそこに書かれている日本語を辿り、濃密な言語表現に身を浸したくなるときである。そういうとき、古井由吉さんの文学世界は、自己と他者、過去と現在、現実と記憶が融合し、自由闊達なのに凝縮された文章を通じて、いっとき、「私」という枠組みを解体してくれる希有な書き手だった。その読書体験は、繊細で官能的な至福の時間だった。人生の折節には、そういう時間が必要なんだと思う。特に、「自意識」が肥大して自己への懐疑が更なる懐疑を呼び醒まし、無限の循環に囚われそうになった自己をリセットしなければならないときには、迂遠かもしれないけれど、このような処方が必要な気がする。

こうして、僕は、「椋鳥」、「辻」、「聖・栖」、「槿」、「山躁賦」、「蜩の声」と彼の作品を読み継いできた。最近だと、大江健三郎さんとの対談集「文学の淵を渡る」と「半自叙伝」。結局、文庫しか読んでないし、普通の文庫より高価な講談社文芸文庫の「仮往生伝試文」、「木犀の日」、「聖耳」、「白暗淵」も未読だから、やっぱり僕は良き読者ではなかったようだ。しかも困ったことに、読み終えた作品でも、ほとんど内容を覚えていないのである。そもそも、それぞれの作品を読み終えた後でも、その内容を説明しろと言われたら、僕は言葉に詰まったと思う。とにかく、男と女がいて、男はどこか体の調子が悪くて、その男を女があやすように介護して、でも気がついたら舞台は別の場所に移っていて、男は記憶の中で自身の過去と歴史と古典世界を彷徨っていて、気がついたらどの言葉を誰が語っているのかも分からないままにただ文章だけが続いていく・・・というのが、僕の古井由吉体験である。これでは、古井由吉さんの作品を読んだとさえ言えない気もしてくる。

とは言え、古井由吉さんの作品を読んだ時間と体験は、僕の身体と精神にどこかに澱のように沈殿し、もしかしたら密やかに発酵してじわりとその影響力を広げているのかもしれない。彼が後年の作品で追求した「老い」というテーマをそろそろ身体的にも精神的にも自覚しなければならない歳に僕が近づいてきているということもある。そんな中で、彼の作品はどのような新しい顔を見せてくれるのだろうか。亡き作家にささやかな追悼の意を捧げつつ、僕はこれからも古井由吉の作品を読み継いでいくだろう。故人のご冥福を心からお祈り申し上げます。

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