ポン・ジュノ監督「パラサイトー半地下の家族」

ポン・ジュノ監督「パラサイトー半地下の家族」を観る。カンヌでパルム・ドールに輝き、アカデミー賞は作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の4部問を獲得。映画に登場したジャージャー・ラーメン(チャパグリ)が新大久保で大流行になるなど社会現象にまで発展した話題作。

まずは、配給したビターズ・エンドの成功を祝福したい。「象は静かに座っている」から「帰れない二人」、「サタンタンゴ」、「ライオンは今夜死ぬ」まで、商業ベースに乗らない傑作を紹介し続けてきてくれた、映画好きにとってはありがたい配給会社。今まで赤字続きじゃないかとハラハラ心配していましたが、ようやくこれで一息つけたのではないだろうか。これでまたガンガン世界の名作を配給してほしい。期待しています。

「パラサイト」は、ネタバレ厳禁の作品で、アカデミー賞の授賞式でも、映画後半の鍵を握る俳優は会場に駆けつけながらネタバレにならないようメディアの前に姿を現せなかったといういわくつき。だから、紹介が難しいんだけど、巷で「有識者」さんたちが訳知り顔に語っている「格差」とか「家父長制家族」なんていう凡庸なネタを繰り返すのも芸がないので、今回は、過去のポン・ジュノ作品を振り返りながら、「パラサイト」の映画的魅力を見てみましょう。

不吉な雨

ポン・ジュノ作品において、雨は悲劇をもたらす不吉な現象である。特に、日が暮れてからの雨、あるいは日中であっても重く立ち込めた雲で暗くなった世界に降る雨は危険である。「殺人の追憶」では雨が降る日に殺人鬼は出没する。夕刻の日が落ちた頃の雨は特に危険で、まるで雨が殺人者を召喚するようだ。あるいは、「グエムル」。そこでも、漢江の怪物は、暗闇の雨の中を跋扈し、人を拐い、喰らう。まるで暗い雨にトラウマを持っているかのように、ポン・ジュノは悲劇をもたらすものとして夜の雨を画面上に召喚する。観客は、映画の中で激しい雨が到来する時、思わず身をすくめ、悲劇の到来を予感することになるだろう。しかも、「パラサイト」においては、この不吉な雨が世界を覆うことになる。それはまるで不条理に覆い尽くされようとする現代社会への監督のメッセージのようにも見える。

分断された世界、あるいは下降すること

分断された二つの世界は、ポン・ジュノ作品の重要な主題である。光と闇、善と悪、富と貧困、地上と地下。ポン・ジュノ作品では、この二つの世界を隔てる扉が開かれたときに物語が作動する。作動させるのは、境界線上に棲まうものである。「スノーピアサー」は、まさにこの二つの世界、支配するものと支配されるものが一緒に乗り合わせた列車の中で展開される。そこでは、境界をいかに越境するかがドラマの核となるだろう。しかし、ポン・ジュノ作品では、こうした二つの世界は往々にして地上と地下の分断となる。ポン・ジュノの長編デビュー作「吠えいる犬は噛まない」を見た人であれば、事件の核心はマンションの地下室にあり、主人公のぺ・ドゥナがそれに気づいて地下室に降りて行ったとき、一気に物語が加速したことを記憶しているはずだ。同じくぺ・ドゥナが主演した「グエムル」においても、漢江の怪物は地下の住処に潜んでいた。グェムルでもまた、ぺ・ドゥナたちは怪物を追って地下に下降していく。ポン・ジュノの作品世界においては、邪悪なものが潜む湿った地下の世界への扉が開かれるとき、物語が活性化するのである。「パラサイト」においても、まさに地上と地下の中間である「半地下」に住む家族が、この二つの世界の境界を開いてしまうことで、物語を一気に加速させることになる。

ひきこもること

ポン・ジュノは、世界から引きこもることに奇妙な偏愛を見せる。オムニバス作品「Tokyo!」の一編として撮影された「シェイキング東京」は、まさに引きこもりを描いた作品だった。しかも、引きこもり男性が、ピザ配達人の少女に恋をして部屋から外に出た時、そこに広がっているのは、ほとんどの住人が引きこもってしまい、外にいるのは宅配やデリバリー業者だけという静まり返った世界だった。一見、ディストピアのようにみえるこの世界だが、目を凝らすと引きこもりの空間の美しさと居心地の良さに思わず引き込まれてしまう。整然と整理された空間、自分の愛するものだけに囲まれて、悪意と危険に満ちた外界から遮断された安全な空間にポン・ジュノの登場人物は逃避する。「シェイキング東京」で、ピザ配達人の蒼井優が引きこもりの男の部屋に整然と並べられたペットボトルと本の棚を前に魅せられたように「完璧だわ」と呟く場面を記憶しているものであれば、ポン・ジュノ監督作品では、ひきこもることができる空間を見つけることがいかに特権的な出来事であるかが理解できるだろう。「母なる証明」でも、主人公の母は、最後には自ら鍼を打って悲惨な現実から目をそむけ忘却の世界にひきこもる。そこが、彼女にとって最後の安息の場だからである。「パラサイト」でも、やはり引きこもりの力学が強力に作動する。そして、登場人物は吸い寄せられるようにこの奇妙に居心地の良い引きこもり空間に足を踏み入れていくのである。

禍々しい石

ポン・ジュノ作品において、石は特別な地位を与えられている禍々しい存在である。「母なる証明」で、重い石が投げ出されたときに起きた悲劇を目にした者は、ポン・ジュノの作品において、巨大な石には決して触れてはならないことを理解するだろう。それに触れてしまった者は、自分の意思にかかわらず、まるで石に取り憑かれたかのように破局への道を辿ってしまうのである。だから、「パラサイト」の家族のもとに大きな山水景石が届けられた時、観客は不吉な予感を抱く。そして、登場人物の一人がこの石を無自覚に持ち上げ、さらにはこの石を抱えたまま「この石が身体の一部になったような気がするんだ」と呟く時、観客は新たな悲劇の到来を確信するだろう。。。

秘密の信号

ポン・ジュノ作品においては、秘密の信号も重要な役割を果たす。苦境に陥った者が、救いを求めて発するメッセージ。しかし、ポン・ジュノ作品において、このメッセージは、秘密に包まれ、簡単な解読を許さない。そもそも、メッセージ自体が気づかれる可能性すらほとんどない。「母なる証明」において、高々と掲げられた少女の衣服は、殺人事件を告げるとともに、登場人物の一人が呟くように、「まるで助けてくれと言っている」かのようだった。あるいは、「殺人の追憶」におけるラジオのリクエスト曲。犯人は、殺人を予告するかのように「憂鬱な手紙」という曲をラジオ番組にリクエストして犯行に及ぶが、それはまるで連続殺人鬼である自分を早く捕まえてこの悲劇を終わらせてくれというメッセージのようにも見える。「半地下」でも、同じように、苦境に陥った者は秘密の信号を発するだろう。信号に気づかれる可能性があるかどうかも分からずに発し続けられるメッセージ。果たして、半地下において、このメッセージは救いをもたらすのだろうか。。。

こうして、ポン・ジュノ監督の過去の作品の記憶を呼び起こしながら「パラサイト」を観ると、この作品が過去のポン・ジュノ監督の作品世界と深く呼応しながら、新たな世界を構築していることに気づきます。カンヌやアカデミー賞の審査委員たちが、どこまでポン・ジュノ監督の過去の作品に親しみ、その魅力の反響を「パラサイト」に見いだしたか分かりません。しかし、「パラサイト」を、単に現代社会の格差を描いた作品だという理由だけで評価するのではなく、こうした映画的魅力に満ちた細部に目を凝らすことでじっくりと楽しんで欲しいと思います。

余談ですが、3月にはユーロスペースで特集上映「鬼才ポン・ジュノの世界」が開催されます。まだみていない作品がある方、ぜひ映画館に駆けつけましょう!

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