ウィリアム・ワイラー監督「おしゃれ泥棒」

BSシネマの録画で観るものがなくなってきたので、とりあえず「おしゃれ泥棒」を観る。ブーメランの場面や美術館に警報が鳴り響いて警備員が右往左往する場面を記憶しているから、多分、テレビで見たんだろう。こうやってちゃんと観ると、それなりに面白い。

言うまでもないけど、この作品は巨匠ウィリアム・ワイラー監督の作品。オードリー・ヘップバーンとピーター・オトゥールの共演だから、それなりの話題作である。シニアの映画好きの方には、この映画のファンも多いのではないだろうか。

確かに、この映画には魅力的な細部が多々ある。とにかく、オードリー・ヘップバーンはここでもキュートでコケティッシュで、お父さん想いで、コメディエンヌの魅力を最大限発揮している。これだけでも面白い。それにオードリーのお父さん役のヒュー・グリフィスが怪演している。説得力のある贋作画家。屋根裏の贋作制作部屋のいかがわしさもいい感じ。さらに、壁面を移動する鍵とか(何故そうなるのかはぜひ映画でご確認ください!)、美術館内を飛び交うブーメランとか、ネタにはことかかない。

でもなぜか、こうした細部にもかかわらず、映画の全体は活性化しない。その理由は、正直、僕にはよくわからない。もしかしたら、僕がこういったウェルメイドのコメディーと肌が合わないだけかもしれない。あるいは、ウィリアム・ワイラーという監督のある種生真面目な映画の撮り方に、僕が根本的に拒否感を感じているからかもしれない。

実際、僕はウィリアム・ワイラー監督の作品で感動した記憶がほとんどない。「西部の男」「ローマの休日」「大いなる西部」「ベン・ハー」「我らが生涯の最良の年」「コレクター」そして「おしゃれ泥棒」と、フィルモグラフィーを並べてみると、彼が大巨匠であることは十分に理解できる。淀川さんが絶賛していた「孔雀夫人」の監督でもある。それはその通りなんだけど、なぜか、僕はウィリアム・ワイラー監督の作品に入っていけない。それは、ある種、僕という存在が生まれ持ってしまった性のようなもののせいかもしれない。

多分、僕は、ウィリアム・ワイラー監督作品のように、すべてが明晰にストーリー設計され、あらゆるエピソードがきちんと演出効果を計算されてしまって、俳優の演技でさえそのデザインの中に従属してしまっている空間に息苦しさを感じてしまうんだと思う。僕が映画に求めているのは、そのような計算され尽くした世界ではない。むしろ、デザインを重ねた上で、にもかかわらず露呈してしまう何かと遭遇することに映画を見ることを賭けている。その何かは、監督が意図していない深層構造かもしれないし、俳優が全ての演技を超えたところで一瞬垣間見せてしまう俳優自身の生のありようかもしれない。あるいはそれは、ロケハンでたまたまカメラが捉えてしまった世界の一瞬の断面かもしれない。いずれにせよ、そのような遭遇を見逃さずに作品の中に取り入れることで、映画という、徹底的に資本のロジックに支配された表現形態が、「生」を露呈させることができるというのが僕の映画を見るスタンスなんだろう。多分、僕が拒否感を感じるのは、ウィリアム・ワイラー監督が、あまりにもウェルメイドに徹してしまったために、その遭遇をあえて回避してしまった点にあるような気がする。

とはいうものの、映画はいつもこんな僕の考えを嘲笑うかのように、奇跡的な遭遇を組織してくれる不思議な芸術なのだ。もしかしたら、いつか僕は「孔雀夫人」や「黒蘭の女」「月光の女」を見て、今までのウィリアム・ワイラー監督についての全ての発言を撤回し、映画の神の前で涙ながらに自分の不明を懺悔することになるかもしれない。かくも、映画とは蠱惑的な存在なのである。

シェア!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。