月川翔監督「君は月夜に光り輝く」

月川翔監督は、今、僕にとって最も気になる映画監督の一人である。こんなことを言うと、もしかしたら思いっきり引かれるかもしれない。確かに、「黒崎くんの言いなりになんてならない」「君の膵臓を食べたい」「となりの怪物くん」「センセイ君主」と彼のフィルモグラフィを並べていくと、ほとんどが若手アイドルが出演する学園恋愛もの少女漫画の映画化作品である。普段、ゴダールとかタルコフスキーとか黒沢清とか言っている僕が、いきなり「センセイ君主」の魅力について語り始めたら、普通は驚くだろう。

実際、学生を引率して海外研修に行った際、機内上映で「センセイ君主」をみて涙ぐんでいたら、しっかり引率学生の一人にチェックされたことがある。その学生は、「センセイ君主とか見るんですか?」と思いっきり不審の目で僕を見た。まあ、この学生の気持ちもわからないでもないけど、でもジャンルを超えた名作というのは存在するのである。彼女もいつか、映画はジャンルに制約されない独自の価値を持ちうると言うことを理解してくれるだろう。。。

そんなことはともかく、月川翔監督作品の魅力は何だろう?東宝で黙々と学園恋愛映画を撮り続けているこの中堅監督が、実は成城大学在学中にJCF学生映画グランプリを受賞し、東京芸術大学大学院映像研究科で黒沢清や北野武の指導を受け、2009年には、ショートフィルム「The Time Walker」でルイ・ヴィトン・ジャーニーズ・アワードで審査員グランプリを受賞したことはあまり知られてない。このアワードの審査員は、ウォン・カーウェイ、ソフィア・コッポラ、アルフォンソ・キュアロンという国際的な映画人が名を連ねている権威ある賞である。

月川翔監督の作品の魅力は、実際に見てみればわかる。原作がどんなに陳腐でも、あてがわれた俳優がどんなに演技経験のないアイドルであっても、彼はきっちりと仕事をする。荒唐無稽なラブコメに説得力を持たせるその手腕はさすがとしか言いようがない。そこは、ある意味、師匠の一人である黒沢清監督以上に、職人技を発揮していると言ってもいいだろう。同時に、彼が今、恋愛映画を撮り続けているのは、黒沢監督が、90年代にVシネマで「勝手にしやがれ」シリーズから「復讐」シリーズを矢継ぎ早に撮りつつ、「Cure」や「カリスマ」、「回路」などの傑作群を生み出す準備をしていたことにも通じるものがあると思う。

それだけではない。月川監督は、作品ごとにテーマを設定し、そのテーマを徹底的に追求することで映画技法を深めようとしている。その探究の成果を発見できることが、僕にとっては月川監督の最大の魅力かもしれない。

例えば、「君の膵臓をたべたい」のテーマは、回想シーンをいかに現在に接続するか、である。当たり前のことではないかと言う人は、映画史における回想場面の発展をおさらいしてほしい。初期の映画において、過去の回想を映画的に表現するためには様々な工夫が必要だった。まず、登場人物が何かを回想する演技を行う。例えば、目をつぶって物思いにふけるとか、どこか遠くを見つめるとか、あるいは記憶を想起させるオブジェに目を凝らすとかである。それから、フェードアウトやワイプなどで場面転換を明示した上で回想場面にする。時には、回想場面であることを示すために、スモークを焚いたりぼかしを入れたりすることもあった。こうしないと、初期の観客は、その場面が現在なのか、過去の回想なのか理解できなかったのである。もちろん、それ以来、映画の表現技法は進化したし、観客の見方も変わった。今では、回想場面を挿入する際にそこまでする必要はない。もっと洗練された手法が用いられる。ただ、とはいえ、それはあくまでも「回想場面」として何らかの工夫を経て挿入されなければならない。それが映画における定型話法である。

それはそれで便利なのだが、月川監督はこれに疑問を呈する。もっと直接的に過去と現在を並置できないだろうか。過去と現在がダイレクトに接続されれば、過去はより鮮烈な強度をもって現在を豊かなものにするのではないか?それは、映画の話法の革新につながるのではないか?こうして、回想場面が回想場面でありながら、現在に直接つながるという極めてラディカルな実験を行った映画が「君の膵臓を食べたい」なのである。こんなことを、メジャーの商業映画でやすやすとやってのけてしまう日本人監督がいることに僕は感動してしまう。

これは、他の作品でも同様である。例えば、「センセイ君主」は、はるかゼメキス監督の「ロジャー・ラビット」やチャールズ・ラッセル監督の「マスク」などの名作に想いを馳せながら、現代のテクノロジーでどこまで違和感なく実写とアニメを合成できるかを追求した作品である。あるいは、「響-HIBIKI」では、突発的なアクションがいつ起きるかと言うサスペンスを全編に張り巡らした過激なアクション映画だと言って良い。こんな風に、月川監督は、一作ごとに、その映画技法を着実に進化させてきた。では、新作「君は月夜に光り輝く」では何がテーマとなっているのだろうか。

物語は、例によって学園恋愛モノの定石で始まる。発光病と言う不治の病に侵された女子高生まみずの見舞いを命じられた男子学生岡田卓也。発光病とは、細胞異常により皮膚が発光し、その光は死期が近づくにつれて強まっていくと言う難病である。発光病にかかったもので、成人するまで生き残れた者はいない。卓也は、見舞いの際の些細な出来事がきっかけで、まみずから、残り少ない人生でやり残したことを代行してほしいと言う依頼を引き受けることになる。こうして、「依頼と代行」と言う奇妙な関係が始まる。代行を通じて、卓也は徐々にまみずに心惹かれていき、まみずも人生の楽しさに目覚めていく。しかし、発光病は確実にまみずの身体を蝕んでいき、さらに卓也のひめられた過去も明らかになっていく。。。

不死の病に侵された女性との恋、依頼と代行、ひめられた過去・・・。紋切り型としか言いようのない物語であり、しかもほとんどがまみずの病室と彼女が治療を受けている病院の中が舞台という制約がある中で、月岡監督は、相変わらず素晴らしい演出手腕を見せる。

まず、空間の処理。病室と言う限られた空間が豊かな広がりを見せる。それほど大きくない部屋のはずなのに、毎回、病室が違った顔を見せる。ベッド、ソファーセット、治療器具が置かれたサイドテーブル、小物が置かれた棚・・・。映画は、決して病室の全景を映し出さずに、こうした細部を丁寧に描き、カメラアングルを微妙に変え、二人の役者の位置を移動させることで、閉ざされた空間にもかかわらず、閉塞感を感じさせない画面づくりに成功している。

例えば、卓也がまみずのお気に入りの赤いハイヒールの雑誌広告に気づき、これを誕生プレゼントに買ってやろうと心に決めてさりげなく靴のサイズをまみずから聞き出すまでの一連のショット。雑誌のページから始まり、カットを積み重ねながら二人の位置をどんどん動かして、二人の心理的距離の微妙な移ろいを提示する手法は、ため息がつくぐらいに洗練されている。

あるいは、卓也がまみずから連絡を受けて彼女の病室を訪れ、まみずからもう付き合えないと言われる場面。カメラは二人の会話のリズムに寄り添うようにゆっくりとした動きを見せながら、長回しで徐々にまみずの顔のアップへとズームインしていく。そのカメラワークは、二人の感情の高まりを的確に表現すると共に、同じ限られた病室内を今までとは全く表情の変わる心理劇の舞台へと変容させる。すごいとしか言いようがない。

さらに、印象的なのが、光の処理。「君は月夜に光り輝く」と言うタイトル通り、この映画のテーマは、発光病にかかっているまみずが「光り輝く」場面をいかに効果的に演出するかがポイントになる。これを準備するために、月岡監督は周到にまみずへの照明を設計する。映画の冒頭、まみずは、カーテンを通じた淡い間接光に包まれたショットで登場する。その繊細な光が、まみずは「光」の人であることを告知するようだ。そして、彼女をめぐる「光」は、徐々に強度を強めながら、スーパー・ムーンの夜、二人が病院の屋上で夜空を眺めている時に発光を始めるまみずの姿のフルショットへと至る。それはまるで、まみずがスーパームーンの鮮やかな光と感応しているようにも見える。その時、映画とはまさに光を操るアートだと言うことを僕たちは実感するだろう。

いやはや、どんな物語であっても、完成度の高い映像作品にしてしまう月岡監督の職人魂には、本当に頭が下がる。同時に、こんなに真摯で才能あふれる監督が、学園恋愛ものというジャンル映画の制約の中でしか映画を撮れないという、現在の日本の映画状況に暗澹たる想いをいだいてしまう。もし彼がヨーロッパで活動していたら、もっと自分のやりたいことを追求して素晴らしい作品を作ってくれるだろうに。。。

この映画には、これ以外にもまだまだ隠されたテーマがたくさんある。例えば、この物語に月岡監督は「竹取物語」をひっそりと忍び込ませる。そんな場面などなかったと言う人はぜひもう一度映画を見直してほしい。しっかりと「竹取物語」と言う文字が記されている場面があることに気づくはずである。もちろん、まみずが美しい満月の夜に光のタワーに変貌する場面は、かぐや姫が意識されているだろう。これによって、ありきたりの悲恋の物語は、一気に神話的な物語へと変貌を遂げる。

月岡監督、やはり只者ではないと思う。次回作が楽しみである。

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