村上春樹著「猫を棄てる」

久しぶりに本屋に行ったら、村上春樹著「猫を棄てるー父親について語るとき」が刊行されていたので購入。村上春樹作品とは、「風の歌を聴け」以来の付き合いなので、つい条件反射的に買ってしまう。あまり話すこともなくなったけど、連絡があれば「まあ仕方ないか」と言いながらつい付き合ってしまう古い友人のような感じ。

この作品は、もともと文藝春秋に発表した文章をそのまま単行本にしたもの。昨年の発表時には、村上春樹が初めて父親のことを語ったとか、戦争の記憶に対する村上春樹なりのメッセージが語られていると言う形で話題になった。雑誌掲載の文章に特に手を加えず、高妍さんのイラストをのせて一冊にした小品である。1200円という価格も手頃。ランチ一回分の値段と分量というところでしょうか。

文章は、村上春樹が父親の思い出について語っていく。第二次世界大戦で、三度、招集され、中国大陸や国内部隊で軍務についたこと。中国大陸を転戦したが、上官の理解もあって、二度目の招集を早めに切り上げることができたために、バターン攻略戦やレイテ戦への参戦を免れ、結果的に生き残ることができたこと。こうした戦争の記録と、本のタイトルにもなっている「猫を棄てた」記憶と、そして個人的な思い出が語られる。彼は、戦後もずっと、毎朝、「前の戦争で死んでいった人々のため」に読経することを「おつとめ」としていたという。その死者たちの中には、日本人だけでなく、中国人も含まれる。

こういう父の記憶とその歴史をたどりつつ、最後に、村上春樹は、個人の生は様々な偶然の連なりによってたまたま生まれたに過ぎないという事実に思い当たる。彼自身の言葉を借りれば、「我々は、広大な土地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかし、その一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。」ということだ。

例によって、村上春樹の語り口は、淡々としている。歴史を巡る記憶の継承について声高に語ったりしない。それを期待してこの本を手に取ったら、はぐらかされたような印象を受けるかも知れない。文章の冒頭と終わりにそれぞれ猫の話を入れたり、父親の俳句の記憶を入れたりと、なんだか歴史的記憶というテーマからできる限り迂回しようとしているようにも見える。結論めいたものが書き付けられているけれど、あくまでも一般論でしかない。正直、僕は、「だから何が言いたいの?」という読後感を持った。

この文章が書かれた当時、日本はあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」の開催を巡って大騒ぎになっていた。歴史的記憶について何か語らなければならないけれど、何かを語ってしまうと必ずどこかから厳しい攻撃が来るという日本の厳しい状況を反映したこの文章は、そこに書かれている結論と言うよりも、個人的な記憶ですら、このような形でしか書き残すことができない「表現の不自由」時代のドキュメントとして、歴史的意味を持つのかも知れない。そうすると、あえてノスタルジックな昭和を感じさせる挿画を台湾の女性イラストレーターに依頼したことの政治性も浮き彫りになるような気がする。こういうことを考えさせてくれるという点で、この本は1200円分の価値があるかもしれない。

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