ヴィム・ヴェンダース監督「世界の果ての鼓動」

ヴェンダース監督「世界の果ての鼓動」を観る。特に深いわけはなく、久しぶりにヴェンダース監督の作品を観るのも悪くないかなと思ってツタヤで借りてきた。

考えてみれば、ヴェンダース監督の作品を観るのは、2000年の「ミリオンダラー・ホテル」以来。その前は、1987年の「ベルリン・天使の詩」だから、ずいぶんのご無沙汰である。僕は80年代、ロードムービー三部作も「アメリカの友人」も「パリ、テキサス」も「ことの次第」も、監督自身が失敗作と認めている「ハメット」すら観ていたのに、なぜかぱったり彼の作品を観なくなった。理由はよく分からない。ただ、確実に言えることは、ヴェンダース自身が、何かそれまで維持してきた映画に対する情熱を失ってしまったように感じられたことだ、「ミリオンダラー・ホテル」は観ていてつらかった。決して悪い映画ではないと思うけれど、80年代までのヴェンダース作品を観てきた僕にとって、表面的な映像表現だけでなんとか話をまとめようとする彼のスタイルが信じられなかった。

「世界の果ての鼓動」も、多分、同じ轍を踏んだ作品である。コンセプトはすごくよく分かる。この映画の特徴は、お互いに離れたところで、全く通信手段も意思疎通の手段もなくしてしまった一組の男女が、まるで互いに視線を交わしているかのようにシンクロナイズするところにある。いや、正確には長い距離を隔てて本来コミュニーションなど不可能なはずの二人が、決して交わらない視線による小津的な切り返し画面を通じて、まるで互いに対話しているかのように描かれる点にある。

一人は海洋生物学者で、数千メートルの深海に潜って、生命の発生の謎を解き明かそうとしている。もう一人は、英国MI-6のエージェントとしてソマリアに潜入し、アルカイダに拉致されて命の危険にさらされている。二人は、たまたま英国のホテルで出会って恋に落ち、数日間を共に過ごしただけの仲である。しかし、彼らは深いところで愛し合っている。二人をつなぐのは、大西洋。シネフィルのヴェンダースらしく、海洋生物学者が乗る船はアトランタ号(ジャン・ヴィゴの名作!)、深海潜水艇はノーチラス号(リチャード・フライシャー監督「海底二万哩」!)と名付けられている。

映像は美しい。二人が出会って交わす会話は知的刺激に満ちている。深海の熱水から生命が誕生したという科学的知見、ジョン・ダンの詩、宗教を巡る対話・・・。二人が別れた後も、いかなる通信手段もなしに二人は、それと意識することなく振る舞いの一致と互いの想起を通じて相手の存在をなんとか触知しようとする。それは、多分、今までの映画史にない斬新な試みだろう。

でも、全体として見た時、物語は停滞し、映像は活力を欠いているように見える。光が主題になっているのだけれど、それがなぜか焦点を結ばない。この映画は、海洋生物学者の女性が海面から深海へ、すなわち光の世界から暗闇の世界へ向かう旅と、アルカイダに拉致された男が、闇に閉ざされた牢獄から光あふれる海岸へ向かう旅が交差する様を描いている。最後に男は光に包まれた女を観る。闇は、克服され、光が回復する。それは美しいのだけれど、物語が遊離してしまっている。

あるいは水の主題。二人は何度となく海辺から水の中に歩んでいく。それはまるでキリスト教のバプテスマのように儀礼性を帯びている。二人とも、頭まで水に浸かることで神の祝福を受けようとしているかのようだ。最後に男が光に包まれた女を観る場面は、まさにバプテスマにおいて、水中から地上の光を見上げる場面に接続している。その淡い光に包まれた空間は、多分、救済の空間でもあるはずなんだけれど、ただ美しいだけで終わってしまう。

なぜこんなことになってしまうのだろう?僕には、どうすればこの作品が力ある映画になるかを言うことなどもちろんできないけれど、やはりそこには何かが欠けている。久しぶりのヴェンダース監督作品だったけど、残念ながら往事の勢いはまだ失われたままだった。ヴェンダース監督、もっと頑張ってほしい。。。

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