ジョン・ヒューストン監督「天地創造」

ジョン・ヒューストン監督「天地創造」を観る。1966年の作品。旧約聖書の創世記のエピソードを描いた大作。ヒューストン監督自身もノア役で出演し、さらに神の声とナレーションも兼ねている。また、音楽は、当初、ストラヴィンスキーに依頼されたが断られたため、黛敏郎が抜擢され、その映画音楽はアカデミー作曲賞とゴールデングローブ賞作曲賞にノミネートされた。ほとんど現代音楽とも言える抽象的な音楽が、砂漠に展開する旧約聖書の世界と不思議な調和を見せていて、素晴らしいできばえである。

物語は、天地創造から始まる。そう、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は、光あれと言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。・・・」という、あの旧約聖書の冒頭部分である。特撮技術が発達していない時代に、こんな抽象的な場面をよく撮れたなと感動する。黛敏郎の音楽もよくあっている。ジョン・ヒューストン監督の実験精神を感じさせる。

そして、物語は、アダムとイブ、カインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔、ソドムとゴモラの滅亡とロトの脱出、アブラハムとイサクを描いていく。それぞれ強烈なエピソードだが、監督は一つ一つ丁寧に描く。そのスケールは壮大の一言に尽きる。圧巻は「ノアの箱舟」のエピソード。森の中に巨大な船の骨組みを出現させ、完成した暁には多彩な動物たちがノアの草笛に従って船内に乗り込む。ゾウ、カバ、ライオン、虎、キリン、ダチョウ、羊、牛、ホッキョクグマ、ペリカン、ウサギ・・・・。よくぞ集めたと思う。もちろん、一部は合成だけど、狭い空間に動物たちが行儀良く並んで40日間の洪水を生き抜く様子が感動的である。ジョン・ヒューストン監督、もしかしたら大の動物好きだったのかもしれない。特に、腹を空かした虎やライオン達の飢えを癒やすために、「肉はないからミルクをやれ。あいつらは大きな猫だから大丈夫だ。」と家族達に指示するのが微笑ましい。

それぞれの物語はとても有名だけど、こうやって絵にしてもらうとやはりイメージが明確になります。と同時に、旧約聖書における神と人との関係の不思議さが改めて気になります。旧約聖書における神は、新約聖書の神、というかその後のカトリック教会が展開した神学上の時空を超越した全能の神と異なり、とても人間的です。世界を作り、人類を作り出して「産めよ殖やせよ」と命じておきながら、人間が適切な生け贄を捧げなければ機嫌を悪くし、罪を犯せば呪いをかけます。カインが弟のアベルを殺せば、カインを追放し、土地を耕してももはや実を結ばないだろうと呪います。しかも、カインが永遠に苦しむよう印をつけて誰も誤ってカインを殺さないようにするという徹底ぶり。正直、いやな奴です。農業ができなくなったカインはエデンの東に去り、そこで彼の一族は牧畜や鍛冶などの産業を興し、さらに音楽を作るようになります。しかし、知恵を得てしまった人間は悪を認識し、人を搾取し、他人のものを盗み、やがて互いに争い合うようになります。

神はそのような人間達の行いを見て怒り、ノアに「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、私は彼らを地とともに滅ぼそう。」と伝えます。そして、ノアの箱舟に乗ったノア一家と動物たち以外は、地を覆う40日間の洪水で全滅させます。それを見て神は喜び、洪水が引いて神に祈りを捧げるノアに対し「わたしはもはや二度と人のゆえに地を呪わない。わたしは、もう二度と、すべての生き物を滅ぼさない。・・・生めよ、殖えよ、地に満ちよ。」と祝福します。

しかし、人間は繰り返し神の怒りに触れてしまいます。バベルの塔は、天に近づきすぎたために神の怒りに触れ、神は人びとの言葉が互いに通じないようにして塔を崩壊させます。ソドムとゴモラは、人心が荒廃し、神を顧みなくなったために一夜にして灰燼に帰します。

それだけではありません。神は、信仰深く神の言葉に忠実なアブラハムと永遠の契約を結び、アブラハムを多くの国民の父となし、子孫は代々、カナンのすべての土地を永久に所有することを約束します。さらに、100歳になって妻のサラが身ごもるという奇蹟も行います。それなのに、こうして生まれた大切な一人息子イサクが成長すると、神はイサクを生け贄として捧げるよう要求します。アブラハムは、せっかくの一人息子を自身の手で殺さなければならない運命に苦悩しますが、神との契約を守るべく、イサクを生け贄に捧げようとします。。。

こうやってエピソードを連ねていくと、本当に旧約聖書の神は、全能とは名ばかりの、気まぐれで怒りっぽく、生めよ殖やせよと言ったそばから人の悪にうんざりして殺戮を繰り返す理不尽な存在に見えます。しかも、数少ない信心深き者さえ、その信仰を試そうとして試練を与えるという底意地の悪さ。被造物である人間にとってはたまったものではないですよね。文句があるなら、もっと完璧な存在に作ってくれれば良かったのに。。。と愚痴も言いたくなります。

この心の狭くわがままな部族神が、やがて新約聖書において普遍的な愛の宗教に変容し、さらにカトリック神学の中で超越的な存在へと発展していきます。そこから、近代科学が生まれ、宇宙の始まり、無限概念、高次元空間、生命の源などの探求が始まっていくわけですから不思議です。宗教的には、ヒンズー教のブラフマンとアートマンの一致や、道教の陰陽五行説や、仏教の空性の方が洗練されているような気がしますが、この素朴な一神教がいまや現代社会を覆い尽くし、さらに世界と生命の根源に迫ろうとしている事実は否定できません。

これって一体何なんでしょう。ユング派のように神という観念自身が、人間の精神的成長の反映であると主張するとか、あるいは多くのSF作品が繰り返し描いているように神とは高度に発展した地球外知性体だとか、議論し出すときりがなさそうですが、ひとつ言えることは、旧約聖書の神とは理解も予測も対話も不可能な徹底した他者だという事実です。そうした存在を前にして作動する知性が人間という存在であるとすれば、神はまさに人間という存在を作り出すトリガーなのかもしれません。そんなことをつらつら考えながら、3時間近い大作にもかかわらずほとんど長さを意識しないで映画を楽しむことができました。ジョン・ヒューストン監督の映画、もっと見たい!

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