「ピーター・ドイグ」展@国立近代美術館

国立近代美術館で「ピーター・ドイグ」展を観る。新型コロナウィルス感染拡大で休館となり、もしかしたらこのまま終わってしまうのではないかとやきもきしていたのだが、無事、展覧会は再開し、何とか見に行くことができた。

ピーター・ドイグを意識するようになったのは、たぶん10年以上前。原画を見たわけではなく、あるカタログでドイグの一枚の絵に出会って以来、ずっと気になっていた。カタログの絵は、本当に小さな絵だったんだけど、そこにこめられた詩情と静けさに魅入られてしまい、いつかまとまって見たいと思っていた。今回の展覧会は10数年越しにその願いが叶った展覧会。いそいそと駆けつける。

ピーター・ドイグは、 スコットランド出身の画家である。幼少期に、カナダやトリニダード・トバコで過ごした経験があり、ロンドンの美術学校で学んだ後、カナダと英国を往復しながら制作を行う。1990年代に入って作品が認められるようになり、精力的に創作を行う。その作品には、ムンク、フリードリッヒ、モネ、クリムト、キリコなどの影響が感じられ、また映画作品のインスピレーションを得た作品も多く発表している。2000年代に入り、トリニダード・トバコに移住。現在は、この島の風景をテーマに制作を行っている。

ピーター・ドイグの魅力は何だろうか。今回、まとめて観ることができたので、ようやく僕が彼の作品に心惹かれる理由が分かった。最初、僕は、彼の作品に描かれる森や星に魅せられた。柔らかい色調で、ノスタルジックに描かれた風景。色彩は、ムンクのように表現主義的で現実とは異なる色調で描かれているけれど、決して抽象には走らない。その世界の叙情性がまずはドイグの魅力のひとつだろう。現代絵画でもっとも影響力のある具象画家の1人と称えられるのよく分かる。

ピーター・ドイグ「天の川」

でも、それだけではない。ドイグの絵には、深い物語性が感じられる。彼の絵を見ていると、どこか既視感を覚えてしまう。もしかしたら、どこかで観ていたかもしれない風景。あるいは夢の中で、実際にその風景に立ち会い、そこに描かれている人たちと何らかの関係を持っていたかもしれないという不思議な感覚。懐かしくもあり、危うさも感じるその世界の秘密は、引用にある。今回の展覧会で初めて知ったのだけど、ドイグは映画やポスター、絵はがき、ブロマイド、過去の絵画や写真などを自由自在に引用し、そこから発想を得て作品を制作しているとのこと。例えば、以下の作品は、映画「13日の金曜日」のラスト・シーンが引用されている。だから、映画を観ているか否かにかかわらず、この絵には、静けさとともに何か不穏な空気が感じられるのだ。

ピーター・ドイグ「のまれる」

こうしたドイグの物語志向は、当然のように歴史へ、風土へ、人種・民族のアイデンティティへと向かっていく。特に、ドイグがトリニダード・トバコに移り住んでからはなおさらだ。彼は、島の人々と暮らしに親しみ、コロンブスに「発見」されてから、スペイン、イギリス、フランス等の植民地支配の歴史を考えていく中で、その表現を深めていく。具象絵画ではあるけれど、どこか現実を離れた象徴性と、詩的な色彩表現をもったその作品世界には独特の魅力がある。

例えば、「ポート・オブ・スペインの雨」という作品。黄色い壁と緑の鉄扉が印象的な監獄、オレンジ色のライオンが街中を歩き、唯一の人影は白く透明で、そのうつむいた姿には生命感が感じられずまるで幽霊のようだ。そもそも監獄の前の道路も現実感を欠いた色彩で描かれており、屋外であるにもかかわらずまるで監獄の通廊のようにも見える。外界も監獄内と同様に自由を束縛された世界だとでも言うのだろうか。とはいえ、遙か彼方に遠望できる灯台と海と空の青はトリニダード・トバコの陽光を思い出させ、かろうじて前向きな希望を感じさせる。監獄は英国植民時代の拘置所をモチーフにしており、その前を歩くライオンは、アフリカ系民族の地位向上を目指すラスタファリア運動を象徴している。しかし、その表情は険しく、ライオンの後に続く人の影は薄い。唯一、明確な色彩をもっているのは監獄の中の白熱灯だけである。。。こんな風に、絵の前に佇み、色彩と形態に身を委ねながら、その絵画が語ろうとしている物語にゆっくりと沈潜していくこと。これが多分、ドイグの絵画の魅力である。人は、ドイグの絵を通じて、ポート・オブ・スペインの風土と歴史へと想いを巡らせていくのだ。

ピーター・ドイグ「ポート・オブ・スペインの雨」

そして、映画のポスター!ドイグは、トリニダード・トバコに移住してから、定期的にコミュニティでの映画上映会を主宰するようになったという。そして、集客のために自らポスターを描いたとのこと。映画のセレクションは素晴らしく、なるほどと納得できる世界の名画が並んでいる。そして、自由な発想で描かれたポスターが、本当に楽しい。ここでも、強い物語性と強烈な色彩が人の目を引きつける。アートだな、と思う。何よりも、日本映画に対する造詣の深さに圧倒される。黒澤明や小津安二郎だけでなく、大林宣彦や北野武も入っているのだ。日本映画についても相当に詳しいことが読み取れる。

ピーター・ドイグ「ハウス」ポスター

ピーター・ドイグのひとつ上の世代の「ヤング・ブリティッシュ・アーチスト」であるダミアン・ハーストやクリス・オフィリが、コンセプトに走り、スキャンダラスな作品で話題をさらって作品の「市場価値」を高めていったのと対照的に、ピーター・ドイグは具象にこだわり、描かれる対象の色彩、歴史、物語を作品の中に重層的に盛りこんでいく手法を選択した。それは、多分、彼がスコットランド出身とは言え、カナダやトリニダード・トバコなどの周縁世界で長い時間を過ごしたことが影響しているに違いない。アート・マーケットの狂騒から注意深く距離を置いて自分の世界を追求するドイグの作品世界。日本ではなかなか見ることができない企画展なので、できるだけ多くの人に観てほしいと願っています。

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